ときは江戸時代。幕府は大名統制策の1つとして、大名に定期的に江戸に参勤させる「参勤交代」を命じた。
四国中央市新宮町には、土佐藩・山内家の殿様が参勤交代の際に通った土佐街道がある。その昔、若き坂本龍馬もこの道を通り、江戸へ向かったと言われている。
土佐街道
土佐藩はもともと、紀伊水道の海路を通って参勤交代をしていたが、海が荒れて足止めされることも多かった。そこで、6代藩主 山内豊隆のときに、高知から瀬戸内海まで抜ける最短ルートとして、笹ヶ峰を越える陸路が検討された。享保2(1717)年、土佐の村々から7,000人もの人夫が動員され、高知県の立川番所から笹ヶ峰を越えるこの道をつくったそうだ。
山内家は、高知城を出発し、この土佐街道を通って川之江に抜け、香川県の仁尾や丸亀から瀬戸内海をわたって江戸に向かった。6代藩主 豊隆から16代藩主 豊範まで、146年にわたってこの道を利用した。
新宮町は、急峻な笹ヶ峰を越えて愛媛側に下りてきた、"ちょっと一休み"という場所にあたる。
馬立本陣
「霧の森大福」で知られる、道の駅 霧の森の隣にある馬立本陣は、大名や上級武士の宿所・休憩所となっていた屋敷である。もとは戦国期の豪族 石川氏の邸宅であった。
参勤交代の一行は、2日間かけて高知城から立川番所まで向かい一泊、翌日の早朝4時ごろに出発し、笹ヶ峰あたりで夜明けを迎え、新宮に昼ごろ到着した。通常は、馬立本陣で休憩を取った後、川之江に向かって出発したが、下流にある銅山川が渡れないときには、ここに泊まったそうだ。
敷地は約300坪に及び、御殿や藩士宿泊所のほか、駕籠が50丁並ぶほどの広大な庭があったと言う。本陣は、石垣の上に銃眼を備えた1.8mの土塀に囲まれ、前面には広い畑と馬立川、背後には急峻な山があり、攻めづらく守りやすい場所であったようだ。
本陣の建物は、明治30(1897)年に焼失してしまったが、川之江の円徳寺に移築されていた正門は難を逃れ、昭和58(1983)年に当地に復元された。現在は民家となっているため、中に入ることはできない。
石畳(うろこ坂)と太鼓橋の跡
馬立本陣から霧の森に入り、レストランなどを通り過ぎて、馬立川へと下りる道に、300年前の石畳の道が残っている。「うろこ坂」と呼ばれるこの石畳は、雨で川が増水しても流されないような造りになっているそうだ。
馬立川には太鼓橋と呼ばれるアーチ形の橋が架かっていた。参勤交代の一行は、太鼓橋を渡って本陣に入ったようだ。度重なる水害で壊れかかっていた太鼓橋は、明治10(1877)年にとうとう流され、その後橋が架けられることはなかった。岩盤には今も直径20~25㎝の柱穴が残っている。
堂成薬師堂
霧の森第1駐車場を出て、県道を南へ向かう。Y字路を左に進んですぐ、堂成薬師堂が現れる。
5代将軍徳川綱吉の時代に、馬立村庄屋の石川源右衛門が父の彦右衛門と共に建立した。
薬師堂がある堂成地域は、交通の要衝として広く交易が行われ、荷継場や札場、寺子屋などがある地域の中心的な場所
だった。薬師堂の広場では、讃岐の塩や地元の木炭などのほか、土佐の碁石茶などが売買馬立本陣 されていたそうだ。
梅の泉と青木の泉
薬師堂からどんどん南へ。小さな立札に導かれ、細い小道を上っていくと、梅の泉がある。梅の古木の下に泉があったことからその名が付いたそうだ。参勤交代のときには、土佐藩の殿様用の水場として使われていた。当時は庶民に使わせないため、あるいは防犯上の理由からか泉には鍵がかけられていたと言う(今は安全上の理由からふたがしてある)。
街道往来の旅人の喉を潤したのは、茶畑に囲まれた場所にある青木の泉だ。こちらも青木がそばに生えていたことからその名が付いた。
ここで、お茶の話を少し。新宮町は昔から、ヤマチャが自生する茶の栽培に適した気候や土質があった。現在生産されているのは、"ヤブキタ種"で、昭和29(1954)年に脇製茶場の脇久五郎氏が導入した。ヤマチャと同じような自然に近い製法で丁寧に作られている新宮茶は、豊かな香りとうまみが特徴的だ。
参勤交代の途中、藩主たちも新宮のお茶を楽しんだ。6代藩主 豊隆は梅の泉の名水で茶をたて、8代藩主豊敷は、新宮の茶畑を見てこんな句を詠んでいる。
花もよし つまばやこれも 茶の木畑
突鐘地蔵堂と数珠繰り
突鐘地蔵堂は江戸時代中期に地域の人々の手で建てられた。お堂のなかには、木彫の仏像と、石彫の地蔵が安置されている。
お堂の中に気になるものがあった。大きな数珠だ。
これは、百万遍数珠と言われるもので、毎年秋ごろに地域の人が集まり、この数珠を使って数珠繰りをする。数珠繰りとは、みんなで輪になり、念仏を唱えながら大きな数珠をぐるぐる回し、無病息災などを祈る行事のことだそうだ。木製珠は地域の人たちによって奉納されたもので、それぞれに先祖供養の文字が刻まれている。珠の直径は15㎝程、高さは10㎝近くあるため、かなりの重さがある。
腹包丁と下り付
ここから紹介するのは、いよいよ緑が濃くなった土佐街道らしい場所である。
まずは、土佐街道最大の難所と言われている「腹包丁」だ。腹包丁は、土佐藩が早く尾根に出るために開発したと言われている。武士が斜面を下る際、刀の鞘尻がつかえるほどの急峻な道だったので、刀を腹のほうにまわして下ったことから、腹包丁と呼ばれるようになった。
ちなみに、上るときは這うようにしないと上がれないことから、"腹這う坂"で「はらぼうさか」とも言われている。上ってみると、確かに急斜面。下りるときは慎重に足を運ばないと滑って転びそうになる。訪れる際には、滑りにくい靴を履いて来ることをお勧めする。
腹包丁から下り付いたところは「下り付」と呼ばれている。人が往来するこの場所には、広報板が建てられ、参勤交代の日時や人相書きなどさまざまな情報が掲示されていたそうだ。
山内容堂の詩碑
15代藩主 容堂(豊信)は、26歳のとき、馬立本陣で昼休みをとった後、腹包丁の急坂を上って土佐へ向かった。その際、腹包丁の過酷さを詩に詠んでいる。
土佐街道に残るさまざまな遺跡をめぐっていると、殿様や武士、旅人や飛脚など多くの人が行き交っていた往時の様子がしのばれる。
11月は新宮町の山々が紅く染まる、観光にぴったりの季節だ。深まる秋のなか、のんびりと江戸時代にタイムスリップしてみてはいかがだろうか。
(川野 志子)
ガイドと歩く 四国・参勤交代の道 ~新宮町・霧の森界隈~
今回紹介した場所を、ボランティアガイドの方と一緒に歩いて回るイベントが開催されている。新宮町の歴史
を知り尽くしたガイドの方のお話を聞きながら、もっとディープに土佐街道を楽しもう。
実施日 | 第2土曜日(1・2・5・7・8月を除く) 10時~12時50分 |
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参加料金 | 1名様2,000円 (ガイド料、昼食、お茶、保険料を含む) |
申込先 | 四国中央市観光協会 TEL 0896-28-6187 |
催行人数 | 2名より |
集合場所 | 道の駅霧の森 第1駐車場 |
取材協力:四国中央市観光協会 参考資料:「えひめの記憶」愛媛県生涯学習センター