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四国の城

松山城、湯築城(愛媛県松山市)

2012.11.01 四国の城
画像:松山城を望む

松山城を望む

くろーずあっぷ「四国の城シリーズ」の最終回は、松山市にある松山城と湯築ゆづき城、2つの城を紹介する。
最初に、松山城を紹介する。

 

壮麗なる名城

松山城は、標高132mの勝山山頂に本丸があり、山腹に二之丸(二之丸史跡庭園)、山麓に三之丸(堀之内)を持つ、広大な平山城である。天守に小天守や櫓を四方に配置し多聞櫓でつなぐことから、連立式天守と呼ばれる。
近世の城には山城、平山城、平城、水城など様々な城があったが、松山城は日本の平山城の中でも「最高の名城」の1つと称され、現在は、姫路城や和歌山城と並び、日本3大平山城に数えられる。

 

「松山」の基礎を築いた加藤嘉明

松山城は慶長7年(1602年)、加藤嘉明よしあきが築城に着手し、その後およそ四半世紀の歳月をかけ完成した。
嘉明は三河で生まれ、羽柴秀吉に見出されて家臣となり、20歳の時にしずヶ岳の戦いにおいて“七本槍”の1人として功績をあげた。その後も多くの戦功をあげ、関ヶ原の戦いでは、徳川方に味方し、伊予20万石で移封となった。
文禄4年(1595年)、嘉明が伊予に入った当初は、海に面した松前城(正木城)を居城とした。その後、関ヶ原での戦功による加増で、松前城が手狭となり、新たな城地として、勝山を選んだ。築城の翌年には、松前から居を移し、この地を「松山」と命名した。しかし、嘉明は寛永4年(1627年)に松山城未完のまま、会津へと転封てんぽうされた。その後、松山城は嘉明のあとに藩主となった蒲生忠知が二之丸の御殿などを完成させた。

 

勝山築城への策略

新たな城地として、勝山を選んだ嘉明であったが、そこには嘉明の策略があったと言われている。
当時、幕府は城地の場所を申請させ、許可を出していたが、第1候補ではなく、第2候補を選ぶことが多かった。そこで、嘉明は勝山、天山、御幸寺山の3ヵ所を申請したが、幕府の考えを見抜き、第1候補である勝山を第2候補として申請した。結果、嘉明の思惑通り、幕府は勝山での築城を許可したのであった。

「松山」地名の由来

天下を治めていた徳川家康の姓である松平の「松」をもらい、「勝山」を「松山」と改めたという説や、松が常緑樹で、長寿のシンボルであり、神の木とも言われるほど美しい姿をしていたことから名づけられたという説がある。ほかにも、山に多くの松の木が植えられていたから、など由来は諸説ある。

 

四半世紀の大工事

松山城の築城は、着手から完成まで二十有余年の大工事であった。まず、城地の造成から始まり、山頂にあった2つの峰を削って、峰の谷間を埋めた。そして、その山上に本丸を造ったのである。その後は西山腹を削って二之丸、西南の山麓をならして三之丸を造成し、三之丸の外周には堀をめぐらせた。
また当時、山麓には湯山川(現在の石手川)が流れ、付近の平野は氾濫に悩まされていた。そこで、築城に加え、領内の治水のためにも湯山川の水流を変えることが先決であった。この難事業に取り組んだのが重信川の名前の由来にもなった足立半右衛門重信であった。重信は松前城築城の時に領内の河川改修で優れた才能を発揮したので、松山城においても普請ふしん奉行に命ぜられ、築城に先立ち、治水を行った。こうして湯山川の流路を変え、伊予川(現在の重信川)に合流させることにより、城下町の新しい土地を確保したのであった。

画像:二之丸史跡庭園と堀之内

二之丸史跡庭園と堀之内

 

江戸時代最後の天守

松山城を紹介する上で、欠かせないのが大天守である。松山城の大天守は3重3階地下1階の層塔型天守と言われる様式である。現存する12天守の中で、唯一、葵の御紋が付されている。

画像:葵の御紋の入った瓦

葵の御紋の入った瓦

実は、現在の天守は加藤嘉明の時代に建てられたものではない。当初、天守は5重であったと言われており、寛永12年(1635年)に松山藩主となった松平定行によって、3重に改築されたのである。
その理由は、天守の位置が谷にあたる場所に建っていたので、地盤が不安定で倒壊の危険があったため、また、天守が雄大すぎることから幕府に配慮したためとも言われている。
しかし、この天守も天明4年(1784年)落雷により、焼失し、70年後の安政元年(1854年)に再建、落成された。江戸時代の終わり近くに再建されたために、松山城の天守は現存する同時代最後の城郭建築となっている。

画像:大天守

大天守

 

天守の不思議

そもそも天守とは基本的に物見櫓、または籠城するための軍事施設である。そのため、日ごろは城主や側近らが足を踏み入れることはない。生活の場ではないため、床は板張りで天井板もないのが一般的であるが、なぜか松山城の天守は、すべての階に天井板があり、畳の敷ける構造になっている。また、襖を入れる敷居や床の間まであるが、その理由は分かっていない。
さらに天守には面白いものがある。平成の大改修のときに見つかった、侍の似顔絵のある下見板である。天守が再建された江戸時代の落書きとされているが、描かれた人物が誰かは分からない。「かみしも」を着ていることから、当時の作事奉行と考えられている。

画像:侍の似顔絵

侍の似顔絵

 

松山城に残る貴重な建造物

松山城に江戸期より現存する建造物は21あり、すべてが国の重要文化財である。そのなかでも、本丸の北に配置された野原櫓は慶長年間(1596~1615年)の築城時に建てられたと伝えられており、城内最古の建造物の1つと考えられている。野原櫓は騎馬櫓とも呼ばれ、城の北側に対しての防衛を担う櫓である。櫓は入母屋造の屋根の上に、物見櫓を載せた望楼型二重櫓と呼ばれる造りで、全国唯一の現存事例となっている。

画像:望楼型二重櫓野原櫓

望楼型二重櫓野原櫓

また重要文化財ではないものの、日本の城では珍しい「登り石垣」がある。「登り石垣」とは、斜面の下から上へとのぼるように築かれた石の城壁のことである。松山城では、本丸と二之丸の守りを固めるために設けられ、南は大手門跡から二之丸まで、北は乾門から二之丸北までわたっていた。現在、北登り石垣は一部しか残っていないが、南登り石垣はほぼ完全に残っており、全国最大規模を誇る。

画像:南登り石垣の一部

南登り石垣の一部

 

天守から松山平野を眺める

松山城は歴史的にも価値が高いが、「美しい日本の歴史的風土100選」「日本さくら名所100選」などに選ばれており、景色のすばらしさも魅力の1つである。大天守からは松山平野を360°見渡すことができ、天候の良い日には、石鎚山や瀬戸内海の島々を見ることができる。
また松山と言えば、俳人正岡子規も有名だが、子規は松山城に関する句も残している。上りロープウェイを降りた所に、子規の句碑があるが、実はこの句碑自体が俳句ポストになっており、観光客に人気がある。松山城を訪れた際には、絶景をみながら、ぜひ一句詠んでみてはいかがだろうか。

画像:天守から望む瀬戸内海の島々

天守から望む瀬戸内海の島々

さて、ここからは今回のシリーズで唯一の中世の城「湯築城」を紹介する。

 

中世の堅城 湯築城

中世の城は土塁や空堀などが中心であり、天守などがある城郭ではない。つまり、現在の道後公園全体(南北約350m、東西約300m)が湯築城なのである。
湯築城は建武年間(1334~1338年)、伊予の豪族河野通盛によって築かれたとされ、廃城になるまでの約250年間、伊予国の中心であった。築城当初は道後の小丘を中心とした山城であったが、天文4年(1535年)に河野通直が外堀と外堀土塁を築き、この時代には珍しい平山城となった。また、中世の城郭としては居住性の良い堅城であったと言われている。

画像:湯築城全体模型

湯築城全体模型

 

伊予の豪族 河野氏

河野氏は、風早かざはや郡河野郷(現在の松山市北条)を本拠地として勢力を伸ばした一族である。源平合戦(1180~1185年)において、河野通信が功績を挙げ、鎌倉幕府から守護に準ずる地位を認められ、伊予国を統率することとなった。その後、一度は没落するが、元寇において通有が活躍し、その地位を確固たるものとした。
そして、道盛が拠点を河野郷から道後の湯築城へと移す。お家騒動や内紛を繰り返すなど、安泰ではなかったものの、河野氏はその地位を受け継いでいった。
しかし天正13年(1585年)、天下統一を目指す豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景に攻め入られ、最後の当主通直(牛福丸)は降伏する。これにより、一族は安芸国竹原に転封となり、通直の死去によって、河野氏は滅亡する。河野氏のあとに入った小早川氏は松前に城を築いた。また、福島正則も伊予に入ったが、国分山城(現在の今治市桜井)を本拠とし、藤堂高虎が入城するも、のちに湯築城は廃城となったのであった。

 

河野氏と一遍上人

道後公園内に、石造湯釜(通称「湯釜薬師」)がある。湯釜は、浴槽内の温泉の湧出口に設置するものである。この湯釜上部に置かれた宝珠には、「南無阿弥陀仏」と刻まれており、これは通有の依頼により時宗の開祖である一遍上人が書いたとされている。実は一遍上人は河野通信の孫にあたり、河野氏に縁のある人物であった。
また湯釜本体には、享禄4年(1531年)通直の命による温泉の効能に関する文が刻まれており、貴重な文化財となっている。

画像:愛媛県指定有形文化財石造湯釜

愛媛県指定有形文化財石造湯釜

 

城から公園へ

湯築城跡は、明治21年に県立道後公園となり、遊園地や動物園が整備された。昭和62年、動物園の移転に伴い、翌年から埋蔵文化財発掘調査が実施された。当初、調査後は城地跡を日本庭園にする予定であったが、遺構や遺物が数多く発見されたため、歴史遺跡としての保存を求めた市民運動が起き、平成14年に城跡を活かした歴史公園として整備・公開された。
発掘調査はこれまで、公園の南部を中心に、約2万m2で実施されている。調査により、外堀土塁の内側に道路が巡り、その中が居住区という構造が明らかになった。西側が家臣団居住区、東側は庭園区・上級武士居住区であり、現在、調査結果をもとに、武家屋敷や土塁などが復元されている。

画像:復元された武家屋敷

復元された武家屋敷

 

湯築城の見どころ

道後公園内には、資料館をはじめ、復元された武家屋敷内にも展示室が設けられ、当時の武士の生活などを見ることができる。また、発掘調査のときに土塁を断ち割って調べた場所をそのまま利用して、土塁の内部が見られる珍しい展示室もある。
すぐ横には道後温泉、子規記念博物館もある。松山城とともに、“いで湯と城と文学のまち”松山を歩いてみてはいかがだろうか。

(國遠 知可)

参考文献
「四国の城と城下町」井上宗和
「日本100名城の歩き方」日本城郭協会
「松山城の秘密」土井中照
「現存12天守閣」山下景子

画像:地図

松山城データ

所在地松山市丸之内(城山公園)
別名勝山城
金亀城(きんきじょう)など
歴代城主加藤氏、蒲生氏、松平氏
遺構天守、櫓、城門、石塁、堀(濠)
入園料・入館料など 松山城天守観覧料
大人500円 小人150円
二之丸史跡庭園入園料
大人100円 小人50円

湯築城データ

所在地松山市道後湯之町(道後公園)
別名湯月城
歴代城主河野氏
遺構本丸跡、堀(濠)
入園料・入館料など無料
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