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知る人ぞ知る愛媛の観光地

新居浜編  住友別子鉱山「下部鉄道」沿線の産業遺産

2016.03.01 知る人ぞ知る愛媛の観光地

画像:新居浜市

新居浜市は、四国の瀬戸内海側のほぼ中央に位置する人口約12万3千人の都市で、四国屈指の臨海工業都市だ。新居浜市には、日本三大銅山の1つ「別子銅山」があるが、今回は、別子銅山で採掘された銅を運搬していた専用鉄道「鉄道」(そうびらき間10.5km)沿線の産業遺産を紹介する。
この専用鉄道は、初代住友総理人(後の総理事)ひろさいへいによって明治26年に敷設された。下部鉄道のほかに「じょう鉄道」(かどいしはらいしさんじょう間5.5km)があり、これらの鉄道によって旧別子エリアと惣開エリアが3時間で結ばれることとなり、銅の運搬効率を飛躍的に高めたと言われている。
鉄道が敷設されていた沿線には、現在も数多くの産業遺産が残っており、かつて世界一の産銅量を誇った別子銅山の歴史を感じることができる。

 

立川・端出場エリア

下部鉄道の始発駅 端出場

新居浜ICを下りて、県道47号を南進すること20分、下部鉄道の始発駅として発展した「端出場」がある。端出場は、昭和5年から昭和48年の閉山まで採鉱本部が置かれていた場所だ。現在、観光施設「マイントピア別子」の「端出場ゾーン」として観光坑道が整備され、県内有数の観光地となっている。
マイントピア別子に到着すると、まず「端出場貯鉱庫跡」が眼前に現れる。そこから沿道を歩いていくと、当時、東洋一の落差を利用していた「旧端出場水力発電所」や、主要坑道であった「第四通洞」など、往時をしのばせる産業遺産が次々と現れ、まるでタイムスリップしたかのような感覚に襲われる。

 

【コラム】異例の速さで完成した第四通洞

大正4年完成の第四通洞は、端出場に採鉱本部が置かれていた際の主要坑道だ。全長4,596mもある大動脈で、別子銅山の近代化や発展に大きく貢献した。当初、工期は13年を予定していたそうだが、1組20人の鉱夫が1日4交替で作業にあたり、5年8ヵ月という異例の速さで完成したという。
通洞前に立つと、何とも言えない荘厳な雰囲気に圧倒される。

第四通洞

第四通洞

 

上原・山根エリア

山上に堂々とそびえ立つ旧山根製錬所煙突

端出場から下部鉄道沿い(県道47号)を北進していると、山の上にひょっこり顔を出すのが「旧山根製錬所煙突」だ。山根製錬所(明治21年操業開始)は、現在の別子銅山記念館周辺(しょうやま)に設置され、当時の先端技術を駆使して銅製錬を行うとともに、硫酸製造や製鉄試験も行っていた。しかし、当時の技術水準では海外に太刀打ちできず赤字経営が続いたため、製錬所は明治27年に閉鎖され、高さ20mの煙突だけが今なお残されている。生子山は、この煙突にちなんで、地元では「えんとつ山」の名称で親しまれており、遠足コースにもなっているそうだ。
山根公園内にある登山口の表示には、所要時間20分程度と表示されていたが、足取り軽く登れば10分程度で到着できる。ひうちなだを一望でき、何とも気持ちがいい場所だ。

 

圧巻の石積み観覧席 山根競技場

えんとつ山を下りたところに広がっているのが「山根競技場(現山根公園)」だ。山根競技場は、毎年秋に開催される「新居浜太鼓祭り」で、太鼓台(山車)の“かき比べ”会場にもなっているのだが、注目したいのはその観覧席だ。石積み20数段から成る観覧席は、住友各企業の社員の労働奉仕()によって築造されたものだ。収容人数は約6万人と言われ、かつては毎年秋に新居浜にある住友各企業対抗の運動会も開催されていたそうだ。昔も今も、形こそ違え、新居浜の秋を彩る場所だ。

山根競技場観覧席

 

別子銅山の守り神 大山積神社

その山根競技場に隣接しているのが「おおやまづみじんじゃ」だ。別子銅山開坑直後に、鎮護の神として大三島の「おおやまずみじんじゃ」よりかんじょうし、当初は旧別子エリ アの「縁起のはな」に建立されていたが、その後、明治26年に旧別子山村足谷の目出度めった町、大正4年に東平とうなる、そして昭和3年に現在の生子山麓へと遷座された。長きにわたって別子銅山を守ってきた神社は、今なお静かにこの地を見守っている。

大山積神社

 

【コラム】当時の姿を残す別子1号機関車

山根公園内には、別子銅山記念館がある。坑道を思わせる半地下構造の記念館は、サツキの名所としても親しまれているが、記念館の横に、日本最初の山岳鉱山鉄道「上部鉄道」で使用されていた「別子1号機関車」(実物)が展示されている。車両は伊予鉄道の「坊っちゃん列車」と同じドイツのクラウス社製だ。銅を積み、標高1,000mを駆け抜けていた当時を彷彿とさせる。

別子1号機関車

別子1号機関車

 

星越エリア

1日900トンの処理能力 新居浜選鉱場

山根公園から、再び県道47号を北進し、県道11号に入り市内中心部から少し西に進むと、異彩を放つ「新居浜選鉱場跡」が見えてくる。
新居浜選鉱場は、大正14年に竣工。別子銅山では、採掘場が下方に向かうにつれ、鉱石の中に含まれる銅の割合が少なくなってきたことから、これら低品位の鉱石からも製錬を可能とするために建設された。大正15年には、東平の選鉱場が新居浜選鉱場に移設され、選鉱処理能力が増強されるなど、銅製錬の効率化に大きく貢献した。
現在は、建屋を撤去し、跡地には樹木等が植栽され、徐々に自然の姿に戻ろうとしている。その向かいには、昭和初期に整備された住友各社の社宅が密集し、「国内最後の社宅群」と言われた「山田社宅群」とも相まって、歴史を感じることのできる場所だ。

新居浜選鉱場跡

 

当時のままの駅舎 星越駅

新居浜選鉱場に隣接しているのが「星越駅」だ。別子鉱山鉄道で唯一現存する駅舎(平成26年に一部修復済)で、何ともレトロな雰囲気を醸し出している。
星越駅は、新居浜選鉱場の竣工に伴い大正14年に設置された。星越駅には、機関車修理工場や操車場が設けられ、第四通洞出口の端出場駅と新居浜選鉱場を結ぶ採鉱・選鉱の一大拠点となった。こうしたことから、両駅間の人員・物資輸送が急務となり、山田社宅群の整備が進んだ昭和4年からは、一般客も利用可能な地方鉄道に転換した。その後、バス路線の普及に伴い、昭和30年には鉱山専用鉄道に戻り、別子銅山閉山後の昭和52年の廃線とともに、星越駅も廃止された。

星越駅舎

 

惣開エリア

旧住友銀行新居浜支店と「總開之記」碑

星越駅からさらに下部鉄道跡を進むと、程なく終点のあった惣開エリアに到着する。そこから県道137号を進んで行くと、「旧住友銀行新居浜支店」(現住友化学株式会社愛媛工場歴史資料館)が見えてくる。
住友銀行は明治28年5月、第1回住友家重役会議で銀行設立の合意がなされ、同年11月に開業した。新居浜には明治30年に出張店が開設され、同34年に支店に昇格した。以来、この建物は、昭和33年に移転するまで銀行として使用され、別子銅山開坑300年を迎えた平成2年の改修を経て、現在の資料館となった。
なお、建物横には、明治23年、別子銅山開坑200年記念の「總開之記」碑が建っている。

 

おわりに

新居浜は約300年の長きにわたって日本の近代化を支えた別子銅山の名残から、貴重な産業遺産が数多く点在している。今回紹介したのはほんの一部だが、それぞれの場所で、歴史やその時代の雰囲気を感じることができる。
皆さんも、産業遺産を巡って歴史に触れ、近代日本の創成期を支えた人々に思いを馳せてみてはいかがだろうか。

(中川 智裕)

調査月報「IRC Monthly」
2016年3月号 掲載

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