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愛媛の島

怒和島(松山市)

2015.01.01 愛媛の島

タイトル

愛媛の島シリーズ第13回は、松山市の忽那くつな諸島に位置し、農業と漁業を両立する働き者の島、怒和島を紹介する。

 

島の歴史

怒和島は松山の北西の沖合、忽那諸島の西部にある。1959年に旧中島町と合併するまでは、温泉郡神和じんわ村の役場が置かれていた。そのため、現在でも「神和」という呼称が使われており、取材に向かうフェリーの名前も「じんわ」であった。
現在は、島の東側に元怒和もとぬわ、西側に上怒和かみぬわの2つの集落がある。古くは、奈良時代から戦国時代まで北部の宮浦に集落があったとされ、2000年に発掘調査が行われた。

 

丸子鼻まるこのはな

島の玄関口の1つ、上怒和港から北東を眺めると、丸子鼻という愛らしい丸い形の山が見える。
この場所には「丸子姫の伝説」がある。江戸時代、西国の大名の参勤交代の折に、丸子姫というお姫様が乗った船が、丸子鼻の沖で暴風にあい遭難、丸子姫も亡くなったというものである。遭難のあった旧暦の大晦日の夜には、丸子鼻の先の海上に火が灯る、と伝えられている。

画像:丸子鼻

丸子鼻

 

日本一の働き者の島

怒和島の産業は農業と漁業に集約される。島びとの多くは農業を営みつつ漁業権も持っている。「農業と漁業を両立させるのは大変ですね」と地元の人に尋ねると、「日本一の働き者の島だから」と胸を張っていた。
島びとには、海を通じて全国へ、世界へと視野を広げる進取の気風があり、農業の担い手には、県からの派遣実習生として、アメリカで研修を積んだ農業後継者も含まれている。
農作物はかんきつ類が主力で、みかん、いよかんに加え、近年では、紅まどんなやカラマンダリンといった高級品の栽培も増加している。また、砂地の土地と温暖な気候を活かしたたまねぎの栽培も増えている。
ただし、紅まどんなやカラマンダリンの栽培にはビニールハウスや防鳥ネットの設置など設備の負担が大きいこと、イノシシの被害が増加していることが、近年の悩みごとである。

画像:紅まどんなの栽培

紅まどんなの栽培

怒和島の周辺は漁場としても恵まれており、鯛やハマチを始め、季節に応じた種々の水揚げは、松山だけでなく対岸の広島にも出荷されることがある。
また、元怒和、上怒和のそれぞれの入江では、坊っちゃん島あわびや海藻類の養殖が行われ、島の特産物となっている。

画像:坊っちゃん島あわびの養殖いけす

坊っちゃん島あわびの養殖いけす

 

索道さくどうとみかん船

みかん畑をモノレールが縦横に走る景色は忽那諸島に共通のものだが、怒和島では索道(ケーブル)も随所に見られる。みかん山の高い所から積み出すために多く設置されている索道は、農道の整備に伴い減少しているが、現在も使われているそうだ。
みかんの出荷の季節には、みかんのコンテナを直接積み込む専用の船が運航されており、港にはそのためのクレーンなどの施設が整備されている。トラック輸送も行われるが、繁忙期にはフェリーに乗り切れないこともあると言う。

画像:索道とみかん積み込み用クレーン

索道とみかん積み込み用クレーン

 

海テラス給食

島に1つの小学校、怒和小学校は、児童数7名の海に面した小さな学校である。耐震リフォームが終わったばかりの教室は、木をふんだんに使った気持ちの良い明るさである。
隣の島の津和地小学校との合同の行事も積極的に行われているほか、毎週水曜日は、天気がよければ学校前の海岸で「海テラス給食(碧海青空給食)」が行われ、海や船を眺めながらの子どもたちの元気な声が響いている。

画像:海テラス給食

海テラス給食

 

生木いきき地蔵の伝説

元怒和の延福寺の裏山には、「生木地蔵の楠木」がある。19世紀に寺に宿を借りた旅僧が、楠木の幹の中にお地蔵様を彫ったものとされている。体の具 合の悪い人がお参りして、自分の痛むところと同じ場所を撫でると不思議と治るという伝説があったそうだ。
現在は、楠木が大きく成長し、その姿をとどめていないが、楠木の森には荘厳な雰囲気が漂っている。

 

3つの神社

島の北部、宮浦は平地と水に恵まれ、島の中で最初に集落ができた場所とされている。集落は後に元怒和と上怒和に移ったが、若宮八幡神社が残され、島の総鎮守として静かに海を見つめている。
元怒和には、厳島神社があり、朱塗りの拝殿に特徴がある。秋祭りの稚児奴ちごやっこの行列は、担い手の子どもが減って現在では行われなくなってしまった。
上怒和には、菅原道真公を祀る天満神社がある。秋祭りには、一回り大きな獅子頭を用いた勇壮な獅子舞いが奉納される。

画像:若宮八幡神社

若宮八幡神社

 

クダコ島と忽那水軍

怒和島と中島の間に、クダコ島という無人島がある。かつて、忽那水軍が一円に勢力を誇った平安後期以降に、拠点の1つとして城郭が築かれていた。豊臣秀吉の四国平定(1585年)によって忽那氏は没落したが、交通の要衝である忽那諸島の中でも早い時期、明治36年(1903年)に灯台が建築され、現在も海を照らしている。
また、クダコ水道と呼ばれる周辺の海は、有数の漁場として全国から釣り人を集めている。

画像:クダコ島と灯台

クダコ島と灯台

 

しまはく、しまのわの後に

2010年の「しまはく(松山島博覧会)」を機に、島びと手づくりの体験イベントを楽しめる「里島りとうめぐり」が生まれ、2014年には「瀬戸内しまのわ2014」が開催された。怒和島でも「愛媛と広島を結ぶ『釣り体験』と『クルージング』」などのイベントが行われた。
大がかりなイベントは一段落したが、地域資源を活かした住民主体の取り組みは継続され、発展することが期待されている。
なお、まつやま里島ツーリズム連絡協議会が忽那諸島を舞台に実施している「里島めぐり」の参加者には、帰り便の乗船券がプレゼントされる。

松山離島振興協会会長で怒和島在住の田中政利さんにお話を伺ったところ、「いわゆる観光ツアーとは少し異なるが、島の景色や暮らしを知って、『第2のふるさと』と思って島を訪れてくれる人が増えると喜ばしい」、「新しく生まれる人とのつながり、交流がお互いの力になる」と力強く語ってくれた。
また、「東京で国土交通省が開催した『アイランダー2014(全国の離島と都市の交流の祭典)』に出展するなど、既に次のステップに向けて、怒和島、忽那諸島全体が一体となって情報発信に努めている」とのことであった。

画像:松山離島振興協会の田中政利会長

松山離島振興協会の田中政利会長

 

おわりに

怒和島は、これからかんきつ類やたまねぎの収穫の時期に入る。島の2つの港、元怒和と上怒和の間は、お寺や神社など寄り道しながら約4kmの道のりで、暖かな日差しを受けての散策にちょうどよい。
狭い路地の町並みに人々の暮らしを感じ、海や畑を眺めながら、小さな春を探しに訪れてみてはいかがだろうか。

(山崎 浩平)

参考文献
・「SHIMADAS」公益財団法人日本離島センター
・「原色日本島図鑑」加藤庸二
・「ふるさと中島」松山市立中島中学校
・「忽那諸島界隈はええとこぞなもし」山野芳幸

怒和島データ

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