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愛媛の島

津和地島(松山市)

2014.09.01 愛媛の島

タイトル

愛媛の島シリーズ第11回は、松山の沖合30kmほど、忽那くつな諸島西端に位置し、西隣の山口県周防大島町の諸島もろじままでわずか700mという県境の島、津和地島を紹介する。

 

県境の島

津和地島は、忽那七島(中島、睦月むづき島、野忽那のぐつな島、二神島、怒和ぬわ島、津和地島、由利島)のひとつである。かつては由利島の代わりに柱島(山口県)が七島に含まれていた。忽那諸島の北西端にある津和地島からは、その柱島がよく見え、柱島から東に眼を移すと広島県の鹿島が、さらに天気の良い日には、少し遠くに宮島も見える。
2005年に松山市と温泉郡中島町が合併し、松山市になった津和地島だが、天気予報は山口県の周防大島町のほうがよく当たるそうで、まさに愛媛、山口、広島の"県境の島" である。

画像:津和地の港

津和地の港

 

風待ちの港のお茶屋

"津" には"港" という意味があり、津和地という地名は「和やかな港のある土地」に由来すると言われている。その名のとおり、北西の強い季節風を避ける天然の良港である津和地港は、昔から"風待ちの港" として知られていた。
江戸時代、瀬戸内海の交通が盛んになり、下関―上関―津和地―蒲刈(広島県)―鞆ノ浦―牛窓(岡山県)―室津(兵庫県)というルートが瀬戸内海航路の大動脈となった。幕府は、航路に当たる臨海諸藩に公儀接待所の設置を義務付け、瀬戸内海航路を利用する西国諸大名の参勤交代船や幕府公用船の航行の便宜を図った。
松山藩は、"風待ちの港" 津和地に公儀接待所を置くことに決め、寛永12年(1635年)、集落の中央に"お茶屋" と名付けられた接待所を設置した。お茶屋には数人の番人が置かれ、寄港した船に飲料水や薪炭を供給したり、海難事故があれば救助に向かい、破損した船の修理を行ったりするなど、津和地は近世の港町としての機能を持つようになった。

 

貯水兼導水トンネル

津和地にお茶屋が置かれたのは、良港であったということのほかに、瀬戸内海の島にしては良質な水に恵まれていたということも理由だったようだ。
しかし、瀬戸内海は雨量が少ない。日常生活が向上したことで水需要が増大したこともあり、水不足が日常化した。そこで、まずは1980年に海水を淡水化させる装置を導入し、水不足の改善を図った。その後、海水淡水化装置が老朽化してきたことから、日本初の貯水兼導水トンネルを設置することになった。
2年間の工期を経て1999年に完成したこの貯水兼導水トンネルは、島をほぼ南北に貫いており、12,000m2の貯水量を誇る。地下構造物であるため自然災害に強く、コケなどが生えることもないので、水質も悪くならない。また島の美しい自然景観を損なうこともない。たとえ2ヵ月雨が降らなくても飲み水には困らないほどの水が確保できるため、島の水がめとして重宝されている。

画像:貯水兼導水トンネル

貯水兼導水トンネル

 

半農半漁

津和地の基幹産業のひとつは農業であり、1998年頃まではミカンが主要作物だった。しかしミカンは収穫までに時間がかかるため、ミカンよりも早期出荷が可能な玉ねぎにシフトしつつある。ミカンを栽培していた段々畑や、収穫の際に利用するモノレールもそのまま玉ねぎ栽培に活かせるため、今では多くの農家が玉ねぎを作るようになっている。津和地の玉ねぎは冬から春先の低温期に収穫されるのだが、これは全国的にも珍しい。甘く、にがみが少ない極早生のこの玉ねぎは、津和地の名産となっている。
また、ミカンと比べるとイノシシの被害が少ないというのも、玉ねぎが多く栽培されるようになった理由のひとつのようだ。かつて津和地にイノシシはほとんど生息していなかったが、近年、他の島から泳いできたらしいイノシシの数が増えていると言う。しかし今のところ玉ねぎに被害は出ていないとのことだ。
漁業は、10年程前まではタチウオや鯛、メバルの一本釣り、立て網、ゴチ網、タコ壺漁が盛んだったが、魚そのものが少なくなったことに加え、魚価の低迷、燃料費の高騰などが原因で厳しい状況におかれているものの、ヒラメやアワビ(ぼっちゃん島あわび)の養殖を行うなど、漁業の活性化に取り組んでいる。

画像:段々畑

段々畑

 

神輿とだんじり

10月の連休には島をあげての祭が行われる。昔は祭の日が決まっていたが、島を出た人たちが帰って来やすいよう連休に催されることになったそうだ。祭に合わせて、毎年30人近くが島に帰ってくる。

画像:神輿

神輿

祭で担ぐ神輿には2種類ある。ひとつは八幡神社の神輿で、選ばれた5人しか担ぐことができない(1人は笹持ち)。衣装は白装束に袴、年齢も30歳以上と決められている。さらに、この神輿を担げるのは一生に1回限りであったと言う。現在では人口減少が進んだこともあり、一生のうちに1回限りということもなくなったそうだが、それでも"選ばれし者の神輿" というイメージは健在のようだ。もうひとつは三島神社の神輿で、こちらは法被をまとい、12人で担ぐ。
神輿と共に3台のだんじりも引かれる。忽那諸島でだんじりを引くのは津和地だけであり、かつては喧嘩だんじりで大いに盛り上がっていたそうだ。今は喧嘩だんじりはなくなったが、威勢のいいかけ声とともに勇壮なだんじりが集落を練り歩く。
祭は3日間行われるが、神輿やだんじりが出るのは2日目までで、3日目には宴会が開かれる。だんじりを出す際には、各家庭、だんじり1台につき1日1,000円ずつのご祝儀を出し、このご祝儀で3日目の宴会をまかなうのだと言う。

画像:だんじりを担ぐ人々

だんじりを担ぐ人々

また、祭の日まで、だんじりはそれぞれの組内で、2年毎の持ち回りで保管されており、保管しているところは"だんじりの宿" と呼ばれる。だんじりの宿に当たっている人がその年の宴会の運営も担当することになっていたが、現在は保管を担当する人と接待を担当する人は別になっている。また、保管できるところが少なくなったため、2台は保育園(現在は閉園)に保管されている。

 

平和の碑

太平洋戦争末期の1945年8月、海軍の第21輸送艦が米軍機の爆撃を受け、津和地の浜に緊急座礁した。島民総出で救助活動を行い、負傷者は小学校に収容し応急処置に当たったが、63名の尊い命が失われた。翌日、空爆の合間をみて警防団員の手により遺体を火葬し、小学校の校庭で合同慰霊祭を行った。現在は防波堤ができたためその浜はないが、1988年に「平和の碑」が建立された。戦後30年が経った頃から、生存者や遺族にも余裕ができたのか、毎年夏に慰霊の旅に津和地を訪れるようになり、島民との交流が始まった。今でも時々、縁のある人が島を尋ねてくるのだと言う。「平和の碑」は、建立されて以来、津和地小学校の生徒達が月1回清掃をしている。

画像:平和の碑

平和の碑

 

島を体験しよう!

津和地島では、「瀬戸内しまのわ2014」に合わせて、"瀬戸内のエーゲ海" をたっぷり堪能できる県境クルーズ(5月~9月末まで)や、津和地の名産、 新玉ねぎの収穫体験(2月下旬~3月末まで)など様々な体験イベントが用意されている。

画像:島から見える朝日

島から見える朝日

また、津和地島には2軒の旅館があり、どちらの旅館も要予約だが、津和地の海で獲れたばかりの魚を料理してくれる。
島の一周は8km弱、津和地港でレンタサイクルを借りることもできるので、ゆっくりと島の景色や空気を楽しむのもオススメだ。ここでしかできない体験や料理を、ぜひ一度味わってみてはいかがだろうか。

(加藤 あすか)

参考文献
・「SHIMADAS」公益財団法人日本離島センター
・「忽那諸島界隈はええとこぞなもし」山野芳幸
・「ふるさと津和地」西村亀太郎

津和地島データ

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