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愛媛の島

釣島(松山市)

2014.01.01 愛媛の島

タイトル

愛媛の島シリーズ第7回は、明治初期に造られた「釣島灯台」で有名な松山市の釣島を紹介する。

 

釣島の由来

釣島は、興居島の西方約2kmのところにある。松山空港に海側から着陸する直前、左側の窓から見えるしずく型の小さな島である。
釣島は、正徳3年(1713年)には松山藩の放牧場として馬が飼われていたとの記録があるが、文久3年(1863年)までは無人島だった。元治元年(1864年)に興居島から7人が移住して以来150年を経て、現在の集落を形成している。
馬がいたので以前は「馬島」とも呼ばれていたようだが、鶴が多く飛来したり、魚が多く釣れたりしたことから、明治時代に「釣島(鶴島)」と呼ばれるようになったと伝えられている。
"つりしま"と読まれることがあり、港の案内表示板や地名辞典などでは"つりしま"と表記されているものもあるが、正しくは"つるしま"と読む。海図のルビにも"つるしますいどう"と記載されている。

 

半農半漁の島

釣島は、半農半漁の島である。島には水田はなく、農業は南斜面での果樹栽培が盛んで、なかでもいよかんやせとか、紅まどんななどのかんきつが多い。農家の果樹栽培にかける意欲は高いものの、釣島の耕地面積は限られているため、興居島にも農地を所有し、船で出作している。各戸に後継者がいることも特徴だ。
漁業は、農閑期のタコやサザエ、イカナゴ漁が盛んだったが、採算が悪化して「今は、ほとんどタコは獲らない」とのこと。漁港周辺には、使われなくなったタコ壺が大量に置かれていた。

画像:かつてはタコ壺漁が盛んだった

かつてはタコ壺漁が盛んだった

 

釣島は灯台の島

釣島と言えば、まず灯台が思い浮かぶ。興居島と睦月島の間の海峡、釣島水道は潮流が速く、瀬戸内海の交通の難所の1つである。釣島灯台は、付近を航行する船の安全確保を目的に、英国人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンが現地調査、設計を行い、明治6年(1873年)6月15日に初点灯した。1963年に無人化されたが、今でも現役で船の安全航行に貢献している。
灯台や付随する建物は、花崗岩で造られた県内最古の石造りの洋式建築物である。このうち、旧官舎と倉庫は、1995年に松山市の有形文化財に指定され、その後3年かけて復元工事が行われた。また、2009年には、灯台と付随施設が経済産業省の近代化産業遺産に認定された。
旧官舎の内観は、ペンキで丁寧に描かれた木目塗りや四隅の部屋にある暖炉、輸入ガラスなどが見事である。内部は原則非公開だが、年に3回の一般公開日には見学できる。公開日や見学申込方法などは松山市の広報で案内される。

画像:釣島灯台と旧官舎

釣島灯台と旧官舎

画像:釣島灯台旧官舎の内部

釣島灯台旧官舎の内部

 

「馬石」の言い伝え

「馬石」は、釣島の東海岸にある岩礁で、長年、波で浸食されて、名前のとおり馬かラクダのような形となった。「馬石」にまつわる言い伝えには、「日露戦争の時、台風で岩の向きが変わって戦勝した」「戦争の時、島の人がこの岩にまたがってから出兵したところ、被弾せずに無事帰還した」などがある。また、「馬石」のある小瀬戸(釣島と興居島の間の海峡)では、不思議と海難事故がないらしい。

画像:東海岸にある「馬石」

東海岸にある「馬石」

 

島民の悲願(その1)定期船の寄港

1969年の初陳情以来、島民の長年の悲願だった定期船の釣島寄港は、船を運航する当時の中島町などの協力を得て、1994年8月に実現した。定期船の寄港前は、島民が所有する自家用船と三津からの渡海船が交通手段だった。「動力船のない頃には櫓を漕ぎ、2時間かけて三津まで急病人を運んだこともあった」と言う。
当初、寄港便数は1日1往復だったが、今は2往復に増え、買い物や通院、かんきつの出荷など、島民の生活や産業に様々な恩恵をもたらした。また、魚釣りや灯台見学を目的に釣島を訪れる人も増えたそうだ。

画像:1日2往復寄港する定期船

1日2往復寄港する定期船

 

島民の悲願(その2)海水淡水化装置

釣島に限らず、島しょ部は慢性的な水不足に悩まされる。興居島までは本土から海底送水管が引かれているが、釣島には届いていない。
かつては、雨水タンクと4つの井戸を時間帯を決めて順番に水を利用していたが、時には井戸水が少ないこともあり、水をめぐる争いごとも絶えなかったそうだ。1990年からは給水船が水道水を運搬し、山の貯水タンクから各戸に配水されるようになったが、島民の強い要望を受け、2002年に「釣島地区海水淡水化装置」が稼動を開始した。

画像:2002年に海水淡水化装置が稼動

2002年に海水淡水化装置が稼動

現在では、装置から供給される水によって、水不足問題は解消したが、本土と比べるとコストは高め。島民は水の大切さを忘れず、掃除や庭木へ散水するときは、"天水"と呼んでいる各戸の雨水タンクに溜められた水を利用することが多いそうだ。

 

休校中の釣島分校

釣島には2012年3月まで、「興居島小学校釣島分校」があったが、児童数の減少に伴い、現在は休校中である。玄関の中には、卒業生や運動会などの写真が飾られている。休校中の釣島分校のホームページもあって、伸び伸びとした子どもたちの姿や島民との交流の様子を見ることができる。
休校により、5名いた児童とその家族、先生は島を離れた。島民からは「子どもたちや先生との交流がなくなり、寂しくなった」という声が聞かれた。休日に里帰りした子どもたちが運動場で遊んでいる姿を見ると、「心が和む」そうだ。
ちなみに、分校横にある明神池は、天然メダカの生息地で"メダカ池"とも呼ばれている。

画像:休校中の釣島分校

休校中の釣島分校

 

住めば都

今回の取材は、月に1度開かれる「島のサロン」の日に行った。お年寄りが集会所に集まってカラオケやゲームを楽しんだり、健康診断を受けたりする日だそうだ。町内会長の小池保さんは、「高齢化は進んでいるが、皆仲が良い。山仕事に出ている人が多く、足腰が鍛えられている。寝たきり老人はいない」と話す。
釣島は、1961年に離島指定されて以降、離島振興法による事業などで岸壁や農道、そして淡水化装置などが整備され、島民の生活は近代化された。お年寄りは、「定期船と淡水化装置のおかげで、本当に便利になった」と言う。また、小池さんによると「便利になったので、釣島へ移住を希望する申し出はある。大歓迎だが空き家がない」とのこと。ほぼ100%の世帯で後継ぎが島に残っていることから、釣島の世帯数は、ここ数十年来25前後でほとんど動きがない。また、家を残したまま島を離れ、本土や興居島から「通い百姓」をしている農家がいるため、空き家がないらしい。
釣島は、忽那諸島・有人7島の中で最も小さな島だが、最も豊かな島だと言われる。「住めば都、釣島は天国よ」というお年寄りの言葉が印象に残った。

画像:山の中腹より集落を見下ろす

山の中腹より集落を見下ろす

 

釣島を訪れる際に・・・

最後に、これから訪れてみようと思われる方へのアドバイス。
三津浜港から高浜港経由のフェリーで釣島へ渡るが、1日2便のため、朝10時前に到着したら夕方16時前まで帰る便はない。島内に食堂や宿泊施設はないが、トイレは港の待合所か灯台にある簡易トイレを利用できる。
釣島海域は、文字通りの魚釣りのスポットで、夜釣りに訪れる釣り客も多いそうだが、日帰りなら滞在時間は約6時間。天気の良い日に訪れ、灯台を見学したり写真を撮ったりしながら、ゆっくり歩いて回ることをお薦めする。

(新藤 博之)

参考文献
「SIMADAS(シマダス)」(財)日本離島センター
「釣島の概要」 松山市
「ふるさと興居島」 興居島中学校
「ふるさと興居島未来へ」 興居島中学校
「忽那諸島界隈はええとこぞなもし」 山野芳幸

釣島データ

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