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四国の城

徳島城(徳島県徳島市)

2012.09.01 四国の城

「四国の城」第7回は徳島城である。天守などの建物は残っていないが、石垣やお堀のほか、復元された大手門などで当時の様子を偲ぶことができる。6月の雨に濡れた徳島城跡を訪ねた。

 

中州の小丘に建てられた徳島城

徳島城は、吉野川とその大小の支流が流れる平野の中央付近にあった中州の小高い丘に建てられていた。
現在では、徳島城跡はJR徳島駅の北側に位置する徳島中央公園となっており、標高61mの城山と深い緑に覆われた山麓は市民の憩いの場となっている。

 

豊臣秀吉の家臣蜂須賀氏が築城

徳島城を近世の城郭として構築したのは蜂須賀家政いえまさである。蜂須賀家は、尾張国海東郡蜂須賀村に住む小豪族であったが、永禄3年(1560年)、正勝まさかつのときに織田信長の家来となり、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に与力として附属され、その片腕となった。

画像:中州の小丘に建てられた徳島城と城下町 「阿波国渭津城下之絵図」 (人間文化研究機構国文学研究資料館所蔵)

中州の小丘に建てられた徳島城と城下町
「阿波国渭津城下之絵図」
(人間文化研究機構国文学研究資料館所蔵)

正勝は歴戦に功をあげ、天正13年(1585年)の四国征討の軍功により、秀吉から阿波一国を与えられたが、老齢を理由に辞退したため、かわりに正勝の子家政に与えられた。
当初、家政は現在の城山とは別の徳島市国府町の一宮いちのみや城に入ったが、一宮城は標高144mの典型的な山城であり、土地が狭く、数多い家臣やその家族を居住させるだけの広さがなかった。そのため、翌年、現在の場所に築城することを決断し、わずか1年後の天正14年(1586年)に完成させ、城の名を「徳島城」とし、城下を「徳島」と呼ぶようになった。築城と並行して、城下の町づくりが始められ、北は吉野川、西は鮎喰川あくいがわ、南は法花川ほっけがわとの間の湿原が埋め立てられるなどされ、城下町徳島のアウトラインがほぼ確立された。
蜂須賀家は、豊臣の家臣であったが、関ヶ原の戦いでは徳川陣営に通じて所領を維持した。そして、家政の子至鎮よししげの時、大坂夏の陣(1615年)の戦功によって新たに淡路国が加えられ、徳島藩は阿波・淡路両国25万7,500石の大藩となったのである。

 

実戦的で簡素な戦国争乱期の城

徳島城は山頂に本丸を配し、本丸の周囲は阿波の青石を用いた高石垣で堅固に築かれた。また、本丸の周囲には東二の丸、西二の丸、西三の丸が配置され、東二の丸には天守として御三階櫓があった。天守と言うと絢爛豪華な姿を想像しがちであるが、戦国争乱期に、それもきわめて短期間に構築された徳島城の天守の造りは、実戦的で簡素であったようだ。
城の南に寺島川、北に助任川すけとうがわがあり、それを堀として利用した。寺島川に面した石垣の塀には、所々に横から矢を放てるように「折れ曲がり塀」という防御塀が設けられ、それを支えた「した石」が今も残っている。なお、寺島川は埋め立てられ、現在ではJR徳島駅や操車場となっている。
本丸の東下には政庁と藩主の居館であった表御殿おもてごてんや庭園があった。現在では、表御殿のあった跡には徳島市立徳島城博物館が建てられ、庭園は江戸時代からそのまま残され、昭和16年(1941年)に「旧徳島城表御殿庭園」として国の名勝に指定されている。

画像:今も残る「折れ曲がり塀」を支えた「舌石」

今も残る「折れ曲がり塀」を支えた「舌石」

 

当時の資料を展示している徳島城博物館

徳島城は、明治8年(1875年)に「わしの門」を除いて建造物がすべて解体され、復元されていないため、本丸や天守などを見ることはできない。しかしながら、徳島城博物館で徳島城の当時の様子を知ることができる。
徳島城博物館は、徳島藩と藩主蜂須賀家の歴史・美術工芸資料を専門的に扱う博物館として、平成4年(1992年)に開館した。所蔵品数は7,000点を超え、建物の外観は書院造り風にデザインされている。
博物館に入ると、「徳島城絵図」や縮尺50分の1の「徳島城御殿復元模型」などがあり、徳島城と城下町の様子を知ることができる。また、藩主の肖像画や武具なども展示されており、大名の暮らしや文化をうかがい知ることもできる。

画像:徳島城博物館

徳島城博物館

博物館の前には、枯山水庭と築山泉水庭からなる旧徳島城表御殿庭園がある。南側に位置する枯山水庭には長さ10.6mの青石で作られた大石橋がある。この石橋には中央左寄りのところに割れ目が入っている。この橋は至鎮が徳川家から迎えた正室に毒を盛られ、それに気付いた至鎮が悔しくて地団駄を踏み、橋が割れたという伝説があり、「地団駄じだんだ橋」とも呼ばれている。

画像:旧徳島城表御殿庭園にある大石橋(地団駄橋)

旧徳島城表御殿庭園にある大石橋(地団駄橋)

 

紀伊水道を一望できる天守跡地

博物館で、一通り蜂須賀家の歴史と徳島城築城の経緯などを聞いた後、本丸のあった城山山頂を目指した。城山は標高61mとさほど高くはないが、上り口に続く石段はかなりの勾配がある。
山頂手前に、天守の御三階櫓があったと言う東二の丸がある。そこに立つと吉野川河口から紀伊水道を見渡すことができる。元来、阿波は畿内と紀伊水道で結ばれていたため、戦略的にも重要な紀伊水道を一望できる場所に天守が建てられたようだ。
石段を上りきると山頂にたどり着く。山頂は本丸が取り壊された後、一時護国神社が建てられていたが、それも今はなく、木々に取り囲まれた広場となっている。

画像:天守の御三階櫓があった東二の丸跡

天守の御三階櫓があった東二の丸跡

 

産業奨励政策の成果で、阿波おどりが盛んに

徳島城の建造物はほとんど残っていないが、蜂須賀家の施政時代に盛んになった文化や行事は数多くある。その1つが徳島の夏を彩る阿波おどりである。阿波おどりは、江戸時代に、藩主が塩や藍の生産を奨励し、藩が豊かになったため、庶民の活力を生み、盛大な行事となったようである。
農民や町民が踊り継いだ阿波おどりは、期間中130万人の観客を集める徳島を代表する行事となっている。期間中だけではなく、市内中心部の新町川や中央公園などの屋外練習場では、夏を前にひたすら練習に汗を流す踊り子たちの様子を見ることもできる。また、「阿波おどり会館」では、年間通して、踊りの実演を見たり、一緒に踊ったりすることもできる。

画像:徳島の夏を彩る阿波おどり

徳島の夏を彩る阿波おどり

 

今後の徳島城跡の活用に期待

阿波おどりのほかにも、浄瑠璃「傾城けいせい阿波の鳴門」で知られる十郎兵衛屋敷跡や、様々な伝統産品や土産物に活用されている藍など、藩主や当時の人々が残したものは数多い。
こうした徳島藩の歴史や伝統などが観光に活かされている半面、観光の側面からは徳島城跡の活用はやや物足りないように思える。特に、徳島城博物館は所蔵品も多く、展示物や徳島の歴史をわかりやすく説明するボランティアガイドも数多くいる。旧徳島城表御殿庭園とも合わせて、もっと観光に活かせるのではないだろうか。

画像:山頂広場は今年4月に徳島LEDアートフェスティバル2013HOPの会場となった (徳島LEDアートフェスティバル実行委員会提供)

山頂広場は今年4月に徳島LEDアートフェスティバル2013
HOPの会場となった
(徳島LEDアートフェスティバル実行委員会提供)

 

おわりに

訪れた日は、あいにくの梅雨空であったが、案内してくださった学芸員の方から、「石垣に使われている青石は、雨に濡れると鮮やかさが増しますよ」と雨の日ならではの楽しみ方を教えていただいた。
歴史に興味を持つ若い女性も時折、訪ねて来るそうである。徳島城が戦国争乱期の城であり、実戦的で簡素な城であったことを知れば、訪れる人の「城」に抱くイメージも少し変わるのかもしれない。城郭がほとんど残っていないだけに、徳島城の姿を自由に想像して楽しんでみるのもいいのではないだろうか。

(黒田 明良)

参考文献
「日本100名城の歩き方」日本城郭協会
「四国の城と城下町」井上宗和
「城郭と城下町8 四国」小学館
「徳島城と町まちの歴史」河野幸夫
「徳島城博物館への招待」徳島市立徳島城博物館

徳島城データ

画像:地図

所在地徳島市徳島町城内(徳島中央公園内)
築城者蜂須賀家政
遺構徳島城跡国指定史跡(2006年)
旧徳島城表御殿庭園国指定名勝(1941年)
入場料徳島城博物館 常設展示観覧料
一般 300円
問い合わせ先TEL:088-656-2525
HPhttp://www.city.tokushima.tokushima.jp/johaku/index.html
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