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四国の城

宇和島城(愛媛県宇和島市)

2012.07.01 四国の城

画像:宇和島城(愛媛県宇和島市)

「四国の城」第6回は宇和島城である。本シリーズですでに取り上げた高知城、丸亀城に続き、天守が現存する貴重な城の1つである。
新緑も鮮やかな5月の宇和島城を訪ねた。

 

築城は、かの藤堂高虎

近世城郭としての宇和島城を築いたのは、城造りの名手として知られる藤堂高虎である。四国を平定した豊臣秀吉から文禄4年(1595年)に伊予国宇和郡7万石を与えられた高虎は、領内を視察したのち、中世の城・板島丸串城跡に自らの居城を築くこととした。
現在は埋め立てられているが、当時は西側が海に面した海城であり、小高い山の上の平山城でもあった。海水を引き込んだ水堀を配すなど、地形を巧みに利用した縄張は、珍しい不等辺5角形になっていることから、「空角あきかく経始なわ」と呼ばれている。城を攻める敵には「四方を囲んだ」と思わせ、実は空いている一辺から攻め出たり、脱出したりできるように計算されていると言うのだ。宇和島城を調査していた幕府の隠密が、「の間、合わせて十四町三反七間…」と誤って報告書に書き記していることや、築城家としての高虎の名声から生まれた逸話であろう。

 

宇和島伊達家の入封

宇和島城の完成を見届けたのち高虎は今治城へ移り、さらに伊勢の国に転封となる。代わって領主となったのは富田信高であったが、元和元年(1615年)、伊達政宗の長子秀宗(側室の子であり、秀吉の猶子ゆうしだったことなどから仙台藩の家督を継げなかったか?)が、徳川幕府の命により宇和島10万石を治めることとなった。
その際、多くの家臣団が随行し、仙台伊達家の気風や文化も、この南国の領地へもたらされた。

 

泰平の世の城

現在、宇和島城に残る天守は、寛文6年(1666年)ごろ、2代藩主宗利の時代に修築されたもので、3重3階の総塗籠式そうぬりごめしき層塔型そうとうがたと言われる様式である。この、外壁を全て漆喰で塗り込めた白く優美な外観は、城の別名である「鶴島城」にふさわしい。
正面から見ると、神社を思わせるような立派な唐破風からはふ屋根のついた玄関があり、伊達家の三種の家紋(竹ニ雀紋、九曜紋、竪三引両紋)が掲げられている。最上階の大屋根にも唐破風の飾りがある。その下の屋根には千鳥破風が左右対称に並び、懸魚げぎょ(棟木等を隠すための飾り板)による細かな装飾が施されている。

画像:曲線状の唐破風と三角の千鳥破風

曲線状の唐破風と三角の千鳥破風

また、一般に最上階にしか付けられないことが多い長押なげし(柱面に水平に打ち付けられる化粧材)が、1階から全て付けられているなど、軍事的な機能よりもむしろ外観の美しさに対する強いこだわりを感じる天守である。
屋根には、珍しい青銅製の鯱や、桃の形の瓦留めなど、細部に独特な意匠がみられる。
内部もまた独特である。天守は居住の場ではないため、板間であるのが一般的だが、1階から3階まで畳敷きで、3階は梁をむき出しのままにせず、きちんと天井板が張ってある。さらに、中央の畳の部屋とそれを囲む武者走り(廊下)の間が障子で仕切られているのは、他の城の天守には見られない造りである。

画像:桃の瓦留めと青銅の鯱

一方で、天守に当然あるべき「石落とし」や「狭間さま」(矢を射たり鉄砲を打ったりするための壁の穴)がない。内部には鉄砲掛けや、鉄砲を打った際、排煙口となる小窓があったりするのだが、全体的にあまり戦闘を意識した造りにはなっていないことがわかる。当時は、徳川政権下の安定した時代であり、大名の権威を「見せる」ことに意義があった天守のようだ。

画像:鉄砲掛け

鉄砲掛け

 

万延の大改修

万延元年(1860年)に、大規模な修復工事が行われている。現在、天守の1階で、その際に作られた10分の1サイズの精巧な模型を見ることができる。

画像:精巧な天守の模型

精巧な天守の模型

また、修復工事に携わった人の名前や、どの部分にどんな材料を使ったかといったことが記録された木の板も残されており、修復の様子を知る貴重な資料となっている。

画像:修復工事の記録が残る

修復工事の記録が残る

 

廃城を免れて

明治維新後、各地の城が次々と取り壊される中、宇和島城は新政府の軍事施設の1つとして活用されたため、廃城を免れた。明治22年(1889年)、国内外の情勢変化で民間への払い下げが決まると、宇和島の人々から「城を残して欲しい」という声が高まった。「幕末の四賢侯」とうたわれ、明治政府に影響力のあった8代当主伊達宗城むねなりが「永久保存すべき場所」と払い下げを願い出、城は再び伊達家の所有となった。天守と上り立ち門を除く多くの建造物は老朽化により失われたものの、昭和24年(1949年)に宇和島市に寄付されるまでの間、城山にあまり手を加えず、開発から守ったため、400種類もの豊かな草木が生い茂る古城の雰囲気が、今日まで伝えられることとなった。

画像:木立の中にひっそり佇む石垣

木立の中にひっそり佇む石垣

 

平成普請による成果

昭和35年(1960年)にも、天守を全て解体・修理して組み直す、大規模な修復が行われた。
また、平成6年(1994年)からは、傷んだ石垣の修理や発掘調査などを行う「平成普請」が 継続して行われている。
一連の調査・修復作業の中で、絵図などの史料には見られない新旧さまざまな石垣や建物跡が発見されたり、かつての三之丸跡に埋もれていた数少ない藤堂期の石垣の遺構を往時の姿でよみがえらせたりしている。
現在は、式部丸跡の石垣の調査修復などが進められている。調査に当たる宇和島市教育委員会の廣瀬岳志氏によると「5~6人のチームで1日に42解体修理するのがやっと」とのこと。重機は使用するものの、現代工法によらない、記録をとりながらの修復は大変な作業だ。この普請は、少なくとも平成28年度まで続けられることが決まっており、今後どのような新しい事実が掘り起こされるか楽しみでもある。

画像:修復された三之丸付近の石垣

修復された三之丸付近の石垣

市民ボランティアグループ「宇和島城城山を守る会」も、城山で伐採された木材を活用した案内板の設置や、休憩場所の整備などに取り組んでいる。夏の花火大会に合わせた夜間開城や、天守に泊まっての星空観測会といったイベントも企画されている。過去を保存する一方で、市民や観光客がゆっくり過ごせる場として、変化もしつつあるようだ。

 

宇和島伊達藩の歴史をより深く知るには

宇和島伊達家には、多くの古文書や武具、書画、調度品などが散逸せずに残っており、当時の大名の生活などを知る貴重な資料となっている。城山にほど近い「宇和島市立伊達博物館」では、その一端に触れることができる。
博物館の西には、7代藩主宗紀むねただが隠居場として建てた南御殿の庭園「天赦園」がある。美しい藤棚をはじめ季節の植物に彩られた池泉回遊式庭園で、幕末の外交の舞台にもなった。
城から1km強北に位置する和霊神社は、初代藩主秀宗とともに仙台伊達から宇和島に入封し、のちに暗殺された家老・山家清兵衛公頼やんべせいべえきんよりの霊を鎮めるために建立された。歴史に思いを馳せながら現代の宇和島のまちを歩いてみると、また違った雰囲気が感じられそうだ。

(上甲 いづみ)

参考文献
「日本100名城の歩き方」日本城郭協会
「四国の城と城下町」井上宗和
「現存12天守閣」山下景子
「城のしおり」全国城郭管理者協議会

宇和島城データ

画像:地図

所在地宇和島市丸之内
別名鶴島城
築城者藤堂高虎
歴代城主藤堂氏(7万石)、富田氏・伊達氏(10万石)
遺構天守(重要文化財)、城跡(国史跡)
天守構造木造3重3階の独立天守
本瓦葺
入場料200円(天守)
問い合わせ先宇和島市教育委員会 文化課
TEL:0895-49-7033
HP https://www.city.uwajima.ehime.jp/site/uwajima-jo/
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