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四国の城

大洲城(愛媛県大洲市)

2012.01.01 四国の城

くろーずあっぷ「四国の城シリーズ」の第3回目は、愛媛の大洲城 を取り上げる。
 松山自動車道を大洲ICで降り、国道56号線を宇和島方面へと車を走らせると、肱川で隔てられた旧市街地との間を結ぶ肱川橋が見えてくる。
 その橋上から川下へ目を移すと、肱川の流れが大きく右行しており、ちょうどその川縁に小高い丘がある。地蔵ヶ嶽じぞうがだけと呼ばれるこの丘の上に立つのが、今回、紹介する大洲城である。

※地蔵ヶ嶽城・大津城・大洲城など、時代によって呼称が変化するが、今回のレポートでは原則として「大洲城」と表記している。

 

肱川の水流を生かした川城

大洲城のある地蔵ヶ嶽は、丘とはいっても高さ20mほどの小丘に過ぎない。肱川が流れる城の北東の守りはともかくとして、なぜこんな低地に城を築いたのか、最初に疑問を持ったが、その答えは伊予国第一の清流・肱川にあった。
 現在では、そのほとんどが埋め立てられ、内堀跡がわずかに面影を伝えるのみだが、旧市街地には、肱川の豊かな水を引き込んだ広大な内堀と外堀が存在した。天守の南方約300メートルにある三の丸南隅やぐらの眼下(現在の県立大洲高等学校の第二グラウンド)にまで、かつては深い外堀が広がっていたのである。

水運の拠点「大津」

画像:三の丸南隅櫓(国指定重要文化財)

三の丸南隅櫓(国指定重要文化財)

水郷・大洲は、古くから瀬戸内海へと流れ出る肱川(古くは比志ひじ川)を利用した水運の拠点として栄え、「港」を意味する「津」を用いて「大津」と呼ばれていた。
 大洲と改名されたのは、元和3年(1617年)に入封し、明治に廃藩となるまで250余年続く加藤氏の時代になってからと言われているが、慶長14年(1609年)に淡路国洲本からこの地に移った脇坂安治が、洲本の「洲」から大「洲」と改名したという説もある。

 

近世城郭への変容

大洲城の歴史は、鎌倉時代の末期に伊予国の守護であった宇都宮豊房の築いた地蔵ヶ嶽じぞうがだけ城に始まると言われている。ただし、それ以前の源平争乱の頃にも、この地に「比志ひじ城」と呼ばれる川城があったという記録もあり、いつからこの地に城があったのかは定かではない。
 大洲城を近世城郭としてつくりかえたのは、文禄4年(1595年)に伊予国宇和郡板島7万石に封ぜられた、シリーズの第1回目の今治城にも登場した“築城名人”藤堂高虎であると言われている。
 高虎が板島城(後の宇和島城)に入ったとき、支城としてこの大洲城の築城工事に着手し、肱川の水流を防備に生かした城を構築した。これにより大洲城は、近世城郭へと変容を遂げることになる。

賤ヶ岳しずがたけ七本槍」脇坂安治と天守

慶長14年(1609年)に藤堂高虎が転封となり、淡路国洲本から脇坂安治が5万3千5百石で入封した。大洲城の天守は、この脇坂安治の時代に建てられたと言われている。
 安治は天文23年(1554年)近江国浅井郡脇坂庄で生まれた。初めは浅井長政、明智光秀らに仕えたが、後に羽柴秀吉の家臣となって賤ヶ岳の戦いで戦功をたて、「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられた。この後も手柄を重ね、淡路国洲本に3万石を与えられた。関ヶ原の戦いでは初め西軍についたが、小早川秀秋らと東軍に寝返り、石田三成の佐和山城を陥落させた。
 慶長14年(1609年)に伊予大洲藩に加増移封されると、支城として利用されていた大洲城を居城とすべく改修工事を実施した。この際に、天守を有する現在の姿がほぼ完成したようだ。

画像:明治期に撮影された大洲城天守

明治期に撮影された大洲城天守

 

復元天守のこだわり

大洲城の天守は、明治21年(1888年)頃に老朽化により取り壊された。現在の天守は2004年に復元されたものであるが、大洲城の天守はただの復元天守ではない。
 一般的に復元天守は鉄筋コンクリート造の模擬天守だが、大洲城の天守は珍しい木造の復元天守である。そして、史実に基づき往時の姿を正確に復元した、日本でも数少ない天守である。この規模では珍しい4層4階の木造天守や屋根に数多く配置された千鳥破風ちどりはふ唐破風からはふなどの外観は明治期の写真から忠実に再現された。内部の構造や間取り、心柱や天守1階の階段周りの吹き抜け空間といった大洲城天守の特徴も、築城当時使用されたと推測される雛形や発掘調査の資料などを基に、忠実に復元されている。
 また、復元工事も富山県の宮大工と地元大洲の大工たちが匠の技を結集させ、当時の技術を可能な限り再現して、見事な木組みで仕上げた。

画像:天守の複雑な木組み(中央は心柱)

天守の複雑な木組み(中央は心柱)

 

「記録」と「記憶」に残る大洲城天守

大洲城の天守は、戦後の建築基準法施行以後に復元されたものでは最大の木造天守で、現存する四国の木造天守の中で一番の高さを誇っている。
 さらに、大洲城天守の復元にあたっては、市民手作りの天守を目指し、様々な工夫がされている。木材はできるだけ地元産の材を使用(残りの材は木曾ヒノキを中心に国産材を使用)し、柱の半数近くは市民や地元の企業などからの寄贈木である。さらに、天守の内部には、寄贈木の案内板を設置しており、天守を訪れた寄贈者が、自分が寄贈した木材がどこに使われているのかすぐにわかるようになっている。
 また、屋根瓦にも、名前や願い事を墨で書いた寄贈瓦が2,900枚あまり使われるなど、まさに市民の「記憶」に残る天守と言えるだろう。

坂本龍馬と大洲藩

1867年に長崎港から大阪に向かっていた海援隊のいろは丸が、長崎に向かっていた紀州藩の軍艦・明光丸と衝突し、沈没したいろは丸事件。坂本龍馬が巧みな交渉術で紀州藩から多額の賠償金を勝ち取ったことで有名だが、実は、沈没したいろは丸は大洲藩所有(海援隊に一航海500両で貸出し中)の船であった。

 

優れた人材を輩出

大洲藩は6万石ながら、文教にも力をそそぎ、多くの人材を輩出した。
 わが国の陽明学の始祖・中江藤樹もその一人である。藤樹は慶長13年(1608年)、近江国(滋賀県)小川村に生まれ、領主だった加藤貞泰に従って米子に移り、さらに元和2年(1616年)から寛永11年(1634年)まで大洲に居住した。後年に屋敷の藤の大樹の下で門人を教えたところから「藤樹先生」と呼ばれた。
 また、幕末、藩士の家に生まれた武田成章は洋学・兵学に優れ、幕臣に取り立てられた。わが国最初の西洋式築城法による平城の五稜郭を設計したことで知られている。

画像:日本の陽明学の始祖、中江藤樹の銅像

日本の陽明学の始祖、中江藤樹の銅像

 

伊予の小京都、大洲

肱川の豊穣の流れに臨む水郷・大洲は、しっとりと落ち着いた盆地の風情ゆえか「伊予の小京都」とも言われるが、その中心はやはり大洲城とその城下町だった旧市街地であろう。藩政時代をしのばせる屋敷や土蔵が軒を連ねており、旧城下町の面影を今なお色濃く残している。
 また、旧市街地には、明治の貿易商であった河内寅次郎が築いた「臥龍山荘」や中江藤樹の邸跡を県立大洲高等学校内に復元した「至徳堂」など、大洲の歴史をしのばせる建築物が数多くある。その他にも、清流・肱川では夏には鵜飼が楽しめるほか、河畔では、藩政時代から伝わるとも言われている「いもたき」も体験できる。
 今年は、春から秋にかけて南予の宇和島圏域(宇和島市、松野町、鬼北町、愛南町)で「う み・かわ・もり・ひと、楽園めぐり」をテーマとした、観光振興イベント「えひめ南予いやし博2012」の開催が予定されている。これを機会に、城下町の風情が漂う「伊予の小京都」大洲に足を伸ばしてみてはいかがだろうか。

(松本 直丈)

参考文献
「日本100名城の歩き方」日本城郭協会
「四国の城と城下町」井上宗和
「復元大洲城」大洲市
「よみがえる日本の城」(株)学習研究社
「大洲城天守の復元(復元記録ビデオ)」大洲市

大洲城データ

画像:地図

所在地大洲市
別名地蔵ヶ嶽城(じぞうがだけじょう)
亀ヶ城(かめがじょう)
大津城(おおつじょう)など
築城者宇都宮豊房(中世城郭)
藤堂高虎、脇坂安治(近世城郭)
遺構本丸、櫓4棟、石塁
文化財大洲城・高欄こうらん櫓・台所櫓・苧綿おわた櫓・三の丸南隅櫓(国の重要文化財)
大洲城跡(県の史跡)
観覧料 一般 500円
中学生以下 200円
※臥龍山荘との共通観覧料
 一般 800円
 中学生以下 300円

 

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