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四国の城

今治城(愛媛県今治市)

2011.09.01 四国の城

今回より、くろーずあっぷ「四国の城」と題して、「日本100名城」に選ばれた四国の城を紹介する。第1回目は、愛媛の今治城を取り上げる。

「日本100名城」

財団法人日本城郭協会が平成18年に選定した。選定基準は、(1)優れた文化財・史跡であること。(2)著名な歴史の舞台であったこと。(3)時代・地域を代表する城であること。四国では9城が選ばれている。

 

日本有数の海の城「今治城」

今治城は、関ケ原の戦いの後、伊予半国、20万石の領主となった藤堂高虎が築いた、高松玉藻城、大分中津城と並んで「日本三海城」の1つに数えられる海の城である。
 今治城は慶長7年(1602年)に起工し、慶長9年(1604年)にほぼ完成した。
 今治城の築城前、高虎は唐子山の山頂にある国分城に入城した。しかし高虎は、発展性に乏しいこの山城を捨て、人家もまばらな海浜であった今張の浦に、三重の堀に海水を引き込んだ壮大な城を築いた。
 水軍を率いて活躍した高虎は、城内に舟入(軍港)を設け、手勢の水軍の基地とした。これにより、瀬戸内航路を押さえ、徳川の対抗勢力になり得る西国大名ににらみをきかせることができた。家康の天下統一直後のこの時代、外様大名でありながら家康の信頼が厚い高虎による今治城の築城は、軍事的・政治的に大きな意味を持っていた。
 また高虎は、今治城の築城に際し、地名を「今張」から「今治」へと改め、「この地を治める」との新たな城下町経営に意欲を示したと伝えられる。

 

築城名人「藤堂高虎」

藤堂高虎は近江の地に生まれ、浅井長政に仕えたのち、織田信澄、豊臣秀長など数々の主君に仕え、関ケ原の戦いでは徳川方に味方し東軍を勝利に導いた。
 高虎は、豊臣秀長に仕えた時代より磨いた築城術を徳川時代にも存分に発揮し、数々の城の縄張り(設計)、普請(土木工事)に携わり、当代一の築城名人と呼ばれた。
 高虎は、自身の居城として、今治城のほか宇和島城、大洲城、津城、伊賀上野城などを築いた。また、豊臣秀吉の治世には、大和郡山城、聚楽第、和歌山城、伏見城などの築城に携わった。徳川の治世でも、膳所城、江戸城、篠山城、亀山城、二条城、再建大坂城、日光東照宮などの築城・建築に関わっている。
 いずれも名城、名建築と呼ばれるものばかりで、築城名人と呼ぶに相応しい多くの実績を残している。

画像:藤堂高虎像と天守

藤堂高虎像と天守

 

まぼろしの天守閣

城といえば、まず天守をイメージされる方が多いだろう。現在の今治城の天守は、1980年に再建された鉄筋コンクリート造の模擬天守である。
 高虎が関わった城には天守が無いものが多く、今治城の天守の存在についても議論があり、天守がなかったとする説もある。
 しかし、築城時期より後に書かれた藤堂家の家譜や郷土資料には、慶長13年(1608年)、高虎が伊勢・伊賀等の22万石に転封となった際、今治城天守が解体され、伊賀上野城に移築する予定で大坂まで運び去られたが、家康に献上する形で丹波亀山城に移築されたとの記述がある。
 亀山城の天守は明治維新まで残ったが、今治城にはその後、江戸期を通じて天守は建てられず、今治城に天守が存在したのはわずか4年の間であった。

 

近世城郭の手本 今治城の「日本初」

今治城には名人高虎による数々の工夫が施されている。その中に日本初の技術も多く、近世城郭の手本になったと言われる。
 まず、今治城の天守は、日本で初めての層塔型天守であった。従来の天守は、望楼型と呼ばれる入母屋造の大屋根の上に望楼をのせる複雑な構造をしていた。これに対し層塔型天守は、上層にいくほど面積を小さくして積み上げる単純な構造で、設計・施工がしやすく、工費も少なくて済むという特長を持つ。また、防火性に優れ見栄えも良い白漆喰総塗籠(柱を見せない大壁造)の白い天守も今治城に採用された日本初の技術であった。
 その他、輪郭式方形と呼ばれる四角い形をした城郭や、その方形の城郭の守りを固めるための長大な多聞櫓、強固な城門である枡形虎口も高虎が初めて今治城で実現し、その後の城郭に広く採用されている。

 

築城にまつわる伝説

今治城は、海砂が吹き揚げる海辺につくられたため吹揚城とも呼ばれ、軟弱な地盤であるにもかかわらず、見事な石垣が築かれている。この石垣にまつわる伝説がある。

伝説(1) 「勘兵衛石」

今治城築城の直接の指揮を執ったのは、高虎が2万石で召し抱えた高名な戦国武将の渡辺勘兵衛である。  石垣を築くには大量の石を使うが、平野には石が乏しい。そこで勘兵衛は、「船一杯の石材を運んできた者には同量の米を与える」とおふれを出した。近くの船頭たちが、先を争って石を運んできたが、用意していた米はすぐに無くなった。船頭たちに「石はもう要らないので持って帰れ。ただし海に捨ててはならぬ」と伝えると、石の処分に困った船頭たちが、浜辺に石を捨てて帰った。その石を使って石垣を完成させたと伝えられている。  今治城には、勘兵衛の功績を称えて名付けられた勘兵衛石と呼ばれる重量16トンの巨石がある。以前は城内に置かれていたが、鉄御門の再建の際、もともとの場所とされる鉄御門の石垣の中に据えられ、城を訪れる人を迎えている。

画像:勘兵衛石と鉄御門

勘兵衛石と鉄御門

伝説(2) 「大島と石工」

大坂城の築城に携わった石工たちが今治城の石垣づくりに雇われ、城の完成後その秘密を守るために処刑されたと伝えられている。石工頭であった治衛門は処刑される前に大島に逃れ、そこで余生を過ごしたという。大島に石工が多いのは治衛門のおかげだと言われている。

 

城の名残

現在の今治城は、かつての三重の堀に囲まれた巨大な城郭の面影はなく、内堀に囲まれた本丸跡、二の丸跡を残すだけであるが、その名残が今治のまちに根付いている。
 その1つが、かつて中堀の北隅にあった舟入である。城内に設けられた軍港としては当時の国内最大規模であり、外堀から瀬戸内海に通じていた。その舟入は現在でも今治港として利用されている。
 また、今治市中心部のドンドビ交差点の「ドンドビ」は「呑吐樋」と書くが、これは、海水の流れをせき止めるためにつくられた樋門のことである。
 今治城の外堀と泉川が合流するこの地点に、外堀の水位を調整するために設置されたもので、満潮時には門を閉ざして海水を「呑み」、干潮時には門を開いて川の水を「吐く」ように見えたことからこの名がついた。呑吐樋は江戸時代中期、当時の今治藩士河上安固が建設したもので、今はその場所に記念碑が建てられている。
 そもそも現在の今治のまちそのものが、人家もまばらであった海浜が今治城の城下町として繁栄した一番の名残である。

画像:ドンドビ交差点にある記念碑

ドンドビ交差点にある記念碑

 

今治城の歩き方

今治城は、徳川家康による天下統一事業を支えた藤堂高虎の手による名城の1つとして、歴史的な価値が高い。こうした歴史的な背景や築城の知識を少し仕入れておけば、城をめぐる楽しさが一段と増すだろう。
 城郭の雄大さ、美しさが今治城の最大の魅力である。近年、県外から多くの人が訪れ、広大な内堀と高い石垣、そして五層の雄大な天守などを思い思いのポイントから写真やスケッチに納めているそうだ。
 海水を引き込んだ内堀は、潮の干満で水位が変わり、海の魚が泳ぐ姿を見ることができる。
 また天守の最上階に上れば、来島海峡が一望でき、天気が良ければ石鎚山まで見渡すこともできる。市内には今治城よりも高い建物があるが、360度ぐるりと城下を見渡せば、まさにお殿様気分を味わえる。

画像:天守展望台から来島海峡を望む

天守展望台から来島海峡を望む

今治城の天守内部は、今治城・今治藩の資料を中心とした郷土歴史資料館になっており、甲冑や刀剣類などの展示が充実している。天守内部での展示物の豊富さは全国トップクラスだそうだ。天守以外にも、多聞櫓は郷土の自然博物館、御金櫓は郷土美術館、山里櫓は古美術館となっており、城でありながら歴史・自然博物館であるかのような多彩な展示が今治城の隠れた魅力の1つである。
 今度の休日、ぶらりと四国の城巡りに出かけてみてはいかがだろう。

(石川 良二)

参考文献
「日本100名城の歩き方」日本城郭協会
「今治城見聞録」「今治城の素晴らしさ」今治城築城・開町400年祭実行委員会
「藤堂高虎と今治(城と街)」越智齋
「四国の城と城下町」井上宗和

今治城データ

画像:地図

所在地今治市通町3丁目(吹揚公園)
別名吹揚城(ふきあげじょう)
美須賀城(みすかじょう)など
歴代城主と石高藤堂高虎(20万石⇒22万石)
藤堂高吉(2万石)
松平氏(3万石⇒4万石⇒3万5千石)
遺構本丸跡、二の丸跡、石塁、内堀(内堀以内は県指定の史跡)
観覧料 一般500円、学生250円、高校生以下又は18歳未満無料
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