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愛媛の登録有形文化財

旧石丸家主屋(久万高原町)

2011.03.01 愛媛の登録有形文化財

「旧石丸家住宅主屋」は、創建時期や大工棟梁などの詳細は不明ながら、構造や間取りのとり方等から、江戸時代中期に建てられたと考えられている。当初は、上畑野川河之内にあったが、昭和52年に「久万高原ふるさと旅行村」に移築された。
 「旧石丸家住宅主屋」は、大きな茅葺屋根を持つ民家で、代々農業を営みながら藩林の管理をしていた上層農民の住居であった。また、当初建物があった上畑野川の近くの山には藩所有林があり、山代官が視察に来た際には宿泊所としても使用されたと伝えられている。
 建物は木造平屋建てだが、建築面積は137m2と大きい。外観で最初に目を引くのは、大きな入母屋造いりもやづくりの茅葺屋根である。平成21年から平成22年にかけて、屋根の葺き替え工事を行ったばかりで、ボリュームのある茅葺が屋根を覆っている。軒先の真下には、民家の外周をぐるりと囲うように、雨落あまおち(軒先から落ちる雨水を流す溝)が張り巡らされており、湿気を家に入れない先人の家づくりの知恵が感じられる。
 建物の内部に足を踏み入れると、土間上部に架かる黒々とした梁が目にとまる。屋根を支える大きな梁は、まるで生き物のような表情さえ感じさせ、家の内に入ってきた者を圧倒する迫力がある。現代の家では見ることも、感じることもできない空気が漂っているのである。そしてまた、梁に刻まれた手斧のあとは、普請に当たった大工の姿を思わせてくれるのだった。
 間取りは、土間に沿った2室と座敷からなる三間取りと呼ばれる平面型式で、田の字型民家へと発展する農家住宅の過程を知る手がかりにもなる。
 現在、土間は改装され喫茶店として利用されているが、かつては「にわ」と呼ばれた土間が籾摺もみすりなどの作業場として使われていた。
 土間に沿って奥には「寝間」があり、手前は12畳半の「おもて」になっている。「寝間」は「おもて」との間を障子で区切られ、天井も低く造られていることから、日の光が入らないようになっている。
 「おもて」の奥には12畳半の「座敷」がある。座敷と戸外の間には「広縁」が配置されている。「座敷」には床の間がない。仏壇は上下2段となった戸棚の上半分を使用しており、座敷飾り(床、違い棚、書院)が普及する江戸時代中期以前の建築様式になっているのが大きな特徴である。

広縁の柱材には栗が用いられ、その姿を一目見れば、この家の歴史がいかに古いかがわかる。現在では手に入れることが困難な太い栗材が多く使われており、建築当時は付近に豊かな森が広がっていたことが想像できる。移転の際に、柱の下部が腐食しているものがあったため、10cm切り下げたそうだが、湿気に強く耐朽性が高い栗材だからこそ、長い間、この家を支えてこられたのだろう。

「旧石丸家住宅主屋」が、江戸時代の自然の素材を生かした建築技術の高さと当時の上層農民の生活を今日に伝える貴重な建築物として、後世にまで保存され続けることを願っている。

(松本 直丈)

参考文献
愛媛県高等学校教育研究会社会部会地理部門(1980):愛媛の地域調査報告集
久万町教育委員会(1978):文化財読本

犬伏武彦EYE

石丸家住宅の価値は、三間取り型民家の部屋の配置や座敷飾りが完成する以前の座敷(床や違い棚がない)の様子を伝えてくれることである。その座敷は12畳半もあり、山代官を迎えた時、山代官はどこから座敷に入り、どこに座ったのかを考えることは面白い。そしてまた、ふるさと旅行村には明治12年建築の渡邊家住宅がある。四間取りの部屋の配置は、「田の字型住居」と呼ばれるように民家の完成した平面・形態である。建築年代が異なる二つの民家が保存され、同時に見学できることは貴重なことと思う。

(松山東雲短期大学生活科学科生活デザイン専攻特任教授)

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