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西日本レポート

【広島県呉市】歴史の証人が港によみがえる - 呉市・大和ミュージアム -

2003.10.01 西日本レポート

歴史の証人が港によみがえる - 呉市・大和ミュージアム -

大和ミュージアム外観、右隣の洋館はターミナルビル

大和ミュージアム外観、右隣の洋館はターミナルビル

0310-02 呉、と聞いて何が思い浮かぶだろう。
愛媛から見る限りにおいて、重厚長大の産業都市・・・が正直なところであろう。しかし、それは表層的な見方にしか過ぎないのかもしれない。
松山から高速船で約1時間、呉港に降り立つと、中央桟橋の旅客ターミナルビルの横では工事が始まっている。ここに2005年春、「呉市海事歴史科学館(愛称:大和ミュージアム)」がオープンする。

その名も「大和ミュージアム」

「大和ミュージアム」は、呉の歴史、船をつくる技術、未来へという3つのテーマからなり、明治以降の産業近代化の歴史と、その礎となった造船・製鋼を始めとした各種の科学技術を、先人の努力や当時の生活・文化に触れつつ紹介する施設である。歴史に学び、平和の大切さを認識していただくとともに、子どもたちに科学技術の素晴らしさを体感してもらい、ひいては観光等の発展に大きく寄与することを目的としている。
その名称から想像されるように、確かに、目玉として3階まで吹き抜けの「大和ひろば」に据えられる戦艦「大和」の10分の1模型やゼロ戦(これは実物)がある、加えて松本零士さんの協力による「宇宙戦艦ヤマト」のコーナーもある。しかし、60年前の戦争を境に大きく転回した呉の歴史や、船が浮かんだり進んだりする仕組み、あるいは新型の船の展示などを通じて科学技術を学んでもらうことを主眼としている。「歴史科学館」と称しているゆえんである。
担当職員の説明に「呉らしい博物館」という言葉が何度も出て来る。ここで何を訴えたいのですかと尋ねると、即座に「平和の大切さ」と「科学技術のすばらしさ」と返ってくる。底流には「大和の技術は戦後の船造りに生きている」があるとみた。歴史に翻弄され続けた呉の歴史と、船に代表される科学技術の象徴として、あえて呉で建造され悲劇の最期を遂げた大和の名を冠して「大和ミュージアム」とした。小笠原市長は、「施設にふさわしい名。『大和』の名は、平和の大切さと呉の歴史を象徴している」と語る。なお、市長は1975年から81年にかけて中村時雄・松山市長の一期目から助役として補佐するなど、松山にとっても縁が深い。

「大和ミュージアム」施設概要

所在地呉市宝町(呉中央桟橋ターミナル隣)
建物4階建(延べ床面積 9,628m2
敷地17,400m2
駐車場乗用車約65台、バス約5台
屋外施設イベントデッキ、芝生広場、展示デッキ、展望デッキほか
オープン予定2005年のゴールデンウィーク前を計画
入館者見込み年間約20万人
事業費約65億円

軍港の歴史とともに歩んだ呉

清国や列強との緊張が高まるなか、明治政府は海軍力の増強を進めた。1886年(明治19年)には、呉は既に設置されていた横須賀に引き続き、佐世保とともに軍港設置が決まった(後に舞鶴が加わる)。1889年(明治22年)には鎮守府が、1903年(明治36年)には呉海軍工廠が設置されるなど、一漁村に過ぎなかった呉は一躍、東洋一の「軍港」、日本一の海軍工廠のまちとなった。人口は40万人を数え(現在20万人)、全国で6番目に市街電車が走るなど繁栄を極めた。海軍工廠からは、戦艦「大和」をはじめとした多くの戦艦・艦艇が送り出された。
しかしながら、戦況悪化とともに徹底的な空襲を受け、軍用地のみならず市街地も焦土と化した。まさに戦後はゼロからの出発となったが、戦前から培われてきた船造りの技術が花開き、世界最大級のタンカーを生み出す全国有数の臨海工業都市となった。呉は、わが国が戦後わずか10年ほどで世界一の造船国へと登り詰める一翼を担った。工場や設備は灰燼に帰したかも知れないが、「船造り」というソフトはエンジニアたちが受け継いでいたのである。

0310-03鎮守府

海軍区の警備、防衛に当たり、艦船などに必要なものを準備する中心的な役目を果たした機関。司令長官として、東郷平八郎(当時海軍大佐)も呉鎮守府に在任したことがあり、市内の入船山公園内に当時の居宅の離れ座敷が移築復元されている。

学習観光の活性化にも寄与

「大和ミュージアム」は年間20万人の入館者を見込んでいる。
何よりも子どもたちに来てもらい、歴史に学び、未来ヘのメッセージを感じてほしいという。毎年、同じ県の被爆都市・広島市には多数の修学旅行生が訪れる。もちろん、愛媛県からも多くの小学生が訪れていることだろう。ここ「大和ミュージアム」も、修学旅行の格好の立寄地になると思われる。感受性の強い子どもたちに、生きた教材として見て、感じ、脳裏にしっかりと刻んでもらいたい、「歴史の証人」としての博物館ではなかろうか。小グループに分かれ、それぞれがテーマを決めて地域に学ぶ「調べ学習」が修学旅行のプログラムの中に組み入れられることがあるが、何よりの教材となるだろう。
「ミュージアム」の前には港が広がり、目に飛び込んで来るのは、IHI(石川島播磨)の造船所で大型タンカーが処女航海に旅立つ日を待っている姿である。大型タンカー(20万トン級)の長さはおよそ300メートル、「大和」が263メートル。「あれよりちょっと短いくらいだね」という説明もできる。ちなみに、高さは11階建のビルとほぼ同じだそうだ。
歴史博物館や科学博物館は珍しくない。しかし、これをあわせた歴史科学博物館というと、そうはない。単に展示して、見せるだけではなく、触れる、あるいはIHIのOBの協力も得て歴史の語り部から実体験を聞くなど、まさに立体的な学習ができる場といえよう。

目の前には大型タンカーが・・・。手前は広島-呉-松山のスーパージェット

目の前には大型タンカーが・・・。手前は広島-呉-松山のスーパージェット

四半世紀がかりの大事業

元をたどれば「ミュージアム」の構想は、1980年に遡るという。まさに四半世紀がかりの事業だ。
検討に検討が重ねられ、当初は、県立で…という動きもあったようだが、既に他地域に県立の博物館があることに加え、財政問題もあって、呉市で取組むことに方針転換した。国・県の補助があるとはいえ、市にとって65億円を投じる大事業だ。しかし、何よりも、戦後60年近くが過ぎ、戦艦大和の引揚品を中心とした資料が失われてしまうことが危ぐされ、設置が急がれたものである。
広く意識を盛り上げ、協力を得るため、市の内外に向けての資料の提供や募金の依頼のほか、「基金」も設置した。なお、募金により事業費65億円の約1割をまかなう計画で既にかなりの部分が集まっているそうだ。

まさに宝の町

この一帯は、元々は内港を埋め立てた土地で、JR呉駅から徒歩10分以内の市街地再開発地区で、「宝町」と呼ばれる。「ミュージアム」に先立ち、隣接地には2004年秋にはイズミを核店舗とするショッピングセンター「ゆめタウン呉」が誕生する予定だ。さらに、一角には「海上自衛隊呉史料館(仮称)」も2006年度末頃に設置される予定という。まさに、呉市にとっては「宝の町」になることだろう。

ゆめタウン完成予想図

ゆめタウン完成予想図

このように今一つ「顔」が見えなかった呉のウォーターフロントは、にわかに活気づいている。
市内にはレトロなレンガ倉庫群や、自衛隊の潜水艦基地を見ることのできる「アレイからすこじま」(アレイは英語で小径という意味で、「からすこじま」は昔沖合にあった小島)もあり、日曜日には護衛艦の一般公開も行なわれている。潜水艦がこんな近くに見える場所は他にないのではないか。

レンガ倉庫群。この左手が潜水艦基地の見える公園

レンガ倉庫群。この左手が潜水艦基地の見える公園

現在、小さいながらも「収蔵展示施設」があり、集まった資料の一部を目にすることができる。その中には、3,000余名とともに東シナ海に眠る大和のジオラマ模型がある。爆裂により2つにちぎれ、海底に散乱するさまを目の当たりにして、言葉を失う。
「ミュージアム」ができる前にもぜひ訪れたい地である。

(福嶋 康博)

呉港、レンガ倉庫以外の写真、図は呉市提供。
呉市海事歴史科学館(推進室)のホームページ
http://www4.ocn.ne.jp/~kureship/

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