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愛媛が誇る世界一・日本一

暮らしのなかの「包む」を演出!! - ポリエチレン製規格袋のシェア日本一 - 福助工業株式会社(伊予三島市)(2003年9月)

2003.09.01 愛媛が誇る世界一・日本一

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 特定分野で世界一、日本一のシェアを持つ県内企業を紹介する“くろーずあっぷ「愛媛が誇る世界一、日本一企業」”。第7回目となる今回は、ポリエチレン製の規格袋(きかくたい)の生産量で日本一のシェアを誇る、伊予三島市の福助工業(株)を訪ねた。

ポリエチレン製の規格袋のシェア日本一

 私たちが日常よく利用するスーパーでは、様々な包装資材を目にすることが出来る。野菜等を包んでいるポリエチレン製の袋、肉や魚、惣菜を入れているプラスチック製の容器、スナック菓子を包装しているラミネート加工の袋、そして買った商品を持って帰るためのレジ袋。また、日常の生活の中で使う紙袋、プレゼントを包む包装紙や不織布等々。福助工業(株)は、こうした生活の中の「包む」を演出する企業である。
 なかでも、ポリエチレン製の規格袋(厚さや寸法などがJISで規格化されたもので、主に業務用で使用される袋)の分野では、国内シェア約3割を誇る日本一メーカーである。ちなみに、レジ袋の国内シェアも推定で2割程度あり、国内シェア1位であると思われる。

規格袋の国内シェア(2001年) 資料:包装資材シェア辞典

規格袋の国内シェア(2001年)
資料:包装資材シェア辞典

 

紙加工からポリエチレン分野へ

 福助工業(株)は1910年(明治43年)、元結の製造・販売を行う井上小次郎商店として産声を上げた。同年には、県内の企業としては最初に水引の製造も手掛けている。日露戦争(1905年)に勝利した日本が、先進諸国の仲間入りを目指して産業の育成に励み、文豪・夏目漱石が「坊っちゃん」や「三四郎」などの代表作を次々と世に出していた頃である。
 その後、37年に紙糸・紙紐、50年に熨斗紙(のしがみ)、57年にはグラビア包装紙と、紙製品全般に事業の裾野を広げていった。
 そして、67年にはポリエチレン分野に参入。今日、日本の「包む」をリードする当社の礎となる、記念すべき第一歩を踏み出した。

 

創業から続く、進取の気風

 創業以来、当社には進取の気風が満ちている。2度の世界大戦を経て訪れる平和な時代を予見して着手した、熨斗紙の生産。消費文化の時代を見越して参入した、紙袋やグラビア印刷。中食・外食の隆盛を先取りした、プラスチックの食品容器等々。ポリエチレン分野への参入も然りであり、まさに時代のニーズを読んだ上での“決断”であった。
 当社がポリエチレン分野に参入した67年はいざなぎ景気の真っ只中。東京オリンピック(64年)をきっかけにテレビが各家庭に普及し、テレビを通して米国の生活・文化が広く紹介された時代であった。スーパーマーケットが米国から上陸したのは53年のことだが、好景気を背景とした大衆文化の広まりとともにスーパーも広く認知され、急速に成長していった。こうした中で、より破れにくく、耐水性に富んだ包装材が求められ、スーパーでの包装の主役の座は、紙からポリエチレンへと、劇的に移っていったのである。
 当社は、ポリエチレン分野参入の7年後(74年)には従来品の2分の1から3分の1の薄さ(約10ミクロン)で、従来品と同様の強度を持つ規格袋を他社に先駆けて開発、国内屈指の技術力・開発力を有する規格袋メーカーとして、業界にその名を轟かせたのである。

 

シェア日本一の秘密

~やるからには日本一を~

 「日本一高い山を問えば全員から答えが返ってくるが、2番目の山を知っている人は少ない」「ナンバーワンの製品を数多く作ろう、そして業界のナンバーワンを目指そう」。第2代社長井上忠三氏が、口癖のように繰り返した言葉である。この固い決意なくして、現在のトップシェアを獲得することはできなかったに違いない。さらに、開発・生産・販売のそれぞれの面において、シェア日本一になった秘密が隠されている。

~足で稼ぐ、生の情報~

 包装資材の分野には統計等が少なく、情報は、営業マンがマーケッターとなって足で稼いでくるものが多い。一見非効率的に映るが、現場に足を運び、お客様の生の声に接することで得られる情報は、当社のかけがえのない財産となっている。こうして得られた情報は、社内のネット上に開示され、開発・生産・販売の各部門で共有、情報を最大限に生かすシステムが構築されている。
 例えば、当社の営業マンには「朝売り」という活動がある。これは、早朝に開かれる青果や鮮魚市場に出向き、代理店の手伝いをしながら新製品の紹介などを行い、そこでお客様のニーズを掴むものである。同社はこれまでに、野菜や果物などの袋詰作業の効率を上げるために滑り性や開口性の良い規格袋や鮮度を維持する規格袋(紫外線をカットするもの、野菜等の呼吸量を最適に保つMA包装など)を商品化しているが、これらはまさしく、営業マンが足で稼いだ情報から生まれた商品である。
 現場の声、お客様の声を汲み上げ、開発に生かすこの仕組みが、当社が日本一の座を獲得した第一の要因であろう。

足で稼いだ情報は、社内ネットで共有化される

足で稼いだ情報は、社内ネットで共有化される

 

~多様なニーズに対応可能な生産体制~

 当社は現在、天津とジャカルタの2ヵ所に海外生産拠点を有している。人件費や品質レベルはもちろん、インフラ整備の状況、物流コスト、商習慣や生活習慣等を綿密に調査した上で、その国に最も適した生産体制を構築し、スーパーのレジ袋などコストパフォーマンスが要求される日本向け商品を生産し、価格競争力を高めている。なお、当社の海外進出は、安価な労働力によるコスト削減効果だけを目的にしているのではなく、海外工場を足掛かりとして海外での市場拡大を図っていくことも視野に入れており、今後の展開が期待されている。
 一方、高度な技術を要する商品やニッチ分野の商品等は国内で生産することにより、クオリティの高い商品の提供や幅広い顧客ニーズへの柔軟な対応に成功している。
 あらゆる顧客ニーズに、的確かつ迅速に対応しうるグローバルな生産体制の構築も、当社がトップシェアを維持する上で、大きな武器となっている。

96年に進出したジャカルタ工場

96年に進出したジャカルタ工場

~代理店との強固な信頼関係~

 当社の製品を売っているのは、全国約4,000軒の代理店である。当社では、必ず、しかもごく自然に、代理店“様”と表現する。この一事をもってしても、当社が代理店のことをいかに大切に思っているかが分かる。
 さらに、運命共同体ともいえる代理店とのつながりを強固にしているのが、年間計画に基づいて行われる勉強会である。この勉強会は、当社の営業マンが担当の各代理店に赴き、商品内容やセールスポイント、販売先の選定から新規ユーザー開拓に至るまで、こと細かに情報を共有し、代理店と目指す方向のベクトル合わせをするものである。
 このような、代理店との信頼関係構築のための絶え間ない努力もまた、当社がトップシェアを堅持している大きな要因であろう。

この袋はポリエチレン製で無害です。焼却しても塩化水素等の有毒ガスは発生しません。
 皆さんは、レジ袋にこのような表示がされているのを見たことがありませんか?
 この表示のとおり、ポリエチレンそのものは、焼却してもダイオキシンなどの有毒ガスを発生させないのです。

 

新たな可能性を求めて

 当社は、紙製品、ポリエチレン製品に加えてラミネート、食品容器、不織布の5事業部門を有し、ポリエチレン分野参入の前年(66年)に11億円弱だった年商は、今では約680億円と、60倍以上になっている。そして現在では、この5事業部門が有機的に複合して、新製品の開発に積極的に取り組んでいる。
 当社では、環境配慮型商品の開発も盛んである。これまでにも、生分解性(微生物により分解される)の、とうもろこしを主原料にしたレジ袋やプラスチック容器などを開発したり、ごみ焼却時に発生するダイオキシンを吸着する効果のあるごみ袋を商品化したりしており、今後のさらなる成長が期待されている。また、回収されたペットボトルを原料としたごみ袋など、リサイクルにも積極的に取り組んでいる。
 福助工業(株)は、今後も包装の新たな可能性を追求し、常に進取の気風に満ちた商品開発で、私たちの暮らしをより快適、より便利なものにしてくれるに違いない。

(藤田 篤)

伊予三島市に立地する本社工場

伊予三島市に立地する本社工場

 

【会社概要】

代表者井上 治郎
no057-07
本社所在地伊予三島市松村町190番地
従業員数985名(グループ合計 2,394名)
売上高約 680億円(単独)
資本金2億円(国内グループ合計 8億800万円)

【会社沿革】

1910年井上小次郎商店創業
水引・元結製造開始
1960年福助工業(株)に社名を改称
1967年ポリエチレン分野へ進出
1971年食品容器製造開始
1985年不織布製造開始
1993年ラミネート製品製造開始
1994年天津福助工業有限公司設立
1996年FUKUSUKE KOGYO INDONESIA設立

 

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